AI生成物がたくさんSNSに並んでいる。それに対して、いい時代になったなあ、と思う人はどれほどいるだろうか。
少なくとも、表現に関わっている人、表現に関心がある人、とりわけ、ファッションデザインの文化に関心のある人(この文章を読んでいる少なくない人)は、どうもAIに対して、微妙な、はっきり言ってしまえば、「不快な」感情を抱くのではないか。私もその一人ではある。
しかし、なぜAIは不快なのだろうか? 考えてみると意外と掴めない。 少し遠回りな批判から考えてみたい。AIそのものが不快なのではなく、AIが作り出す環境が不快なのかもしれない。
こうした問題につながるものとして、「人間の鑑賞能力の劣化」という問題が美学者のテッド・ナンニチェリによって指摘されている(Nannicelli 2026)。ナンニチェリによれば、芸術鑑賞とは、作品を好きだと思うか、嫌いだと思うか、といった快不快の反応だけで終わるものではない。芸術鑑賞するとき、人々は、作品をジャンル、メディウム、歴史的な文脈から捉えて、作者が作品において何を表現しようとしたのか、それをどのような手段で実現しようとしたのか、作品にどのような意味があるのかを受け取ろうとしている。すなわち、鑑賞とは、作品のうちに現れている——ときには本人も気づいていないような——人間のありよう・振る舞いを捉えようとする技能、すなわち「鑑賞技能」なのである。これに対して、人間の関与がほとんど見られないようなAI生成物が広く流通するとどうなるか。そうした種類のAI生成物には、捉えるべき人間のありようや振る舞いの痕跡がほとんどない。そして、それらのAI生成物ばかりに囲まれてしまったら、私たちの鑑賞技能そのものが衰えていく危険がある。ナンニチェリはこれを「鑑賞的脱技能化」と呼ぶ。それゆえ、AI生成物が大量に生成されることには問題がある、とナンニチェリは考えているのだ。
もちろん、ナンニチェリが言うように、芸術鑑賞とは、人間的な行為を味わうことでもあるだろう。人の意志に基づいて創ること、作者の生き様や世界観のようなものが表現されていることへの驚きや味わいというものは確かにあるし、自分もかなり重視する。そして、AI生成物ばかりに人々が慣れてしまうと問題が生じうるというのも正しいだろう。これは、AIへの不快さを理解する助けになってくれそうだ。私たちは、AI生成物ばかりになってしまった世界には今のところ住みたくない。なぜなら、作品を味わうという実践が立ち消えになってしまうからだ。
もう一つ、AIへの不快さを考察する手がかりになりそうな言葉として「盗用」がある。AIと「盗用」を結びつける批判がある。少なくない作家たちは、「AIアートは盗用だ」としばしば主張してきた。日本語でもSNSで様々なイラストレーターが「AI学習禁止」といった文字を作品に表示させたりして、画像学習に用いられることを忌避している。こうした非難には一理ある。既存の作家の作品が同意も報酬もないまま学習データとして利用されていたり、特定の作家の画風がプロンプトによって容易に模倣されたりすることが問題視されているのだ。
だが、美学者のT・J・ブロイによれば、「盗用」という言葉では、アーティストたちのAIに対する違和感はうまく表現できていない(Broy 2026)。そもそも、AI画像生成は、既存の作品をそのまま複製して、偽っているわけではない。どうみてもAIだと分かる。だから、贋作のような意味での悪さはなさそうだ。 特定の作家のスタイルを模倣できるのは確かだ。ゴッホ風とかモネ風とかになるとかわいらしいものだが、存命のアーティストとなると、微妙に悪そうな気配が漂うのも確かだろう。けれど、振り返ってみると、表現というものは、基本的に他人の既存の作品から学び、ときに精密に模倣して、影響を受けることで自分の表現を作り出していく実践である。真似すること自体が悪い、というのも変な感じがする。 では、なぜ多くの作家は「AIアートは盗用だ」と言いたくなるのか。ブロイによれば、問題は、「芸術実践の規範」に抵触している点にある。ここで芸術実践の規範というのは、芸術をする営みを維持したり、発展させたり、その営み自体を成り立たせている大切な価値観のことだ。例えば、他人の作品を模写しながら学ぼうとするとき、機械的に行っているわけではなく、心の中で尊敬の念を抱いたり、気づいていなかった仕掛けに気づいて驚いたり、作家の心や生き様に触れた感覚になったりしながらそうする。それはきっと絵画だけではなく、写真や音楽やダンスでもそうだろう。そして、こうした模倣は、前の世代への敬意と継承を意味する。
これに対して、AI学習における既存の作品利用には、こうした繊細な理解も、先行者の表現を味わう機会も、継承しようとする試みもない。さらには、AI画像生成の普及は、若い作家が制作技能を身につける機会を奪い、芸術実践そのものの継承を妨げる可能性すらある。 したがって、「AIアートは盗用だ」という批判は、厳密には盗用の告発ではないけれど、芸術実践の盗用だと言えるかもしれない。芸術を成り立たせてきた大切な価値観へのリスペクトも、その価値観を支えることもしないで作品を利用し、芸術実践の果実だけを奪おうとすることへの抗議なのだ。
もっとも、ブロイは、重要な留保をつけている。芸術実践の規範とは言ったものの、実のところ、芸術や表現ごとに大切にしている価値観は違う。芸術ではないかもしれないが、しかし指し手が表現ともみなされるようなチェスあるいは将棋におけるAlphaZeroや将棋ソフトの利用や、ヒップホップにおけるサンプリングのように、新しい技術が芸術実践に組み込まれると、何が許されるのか、何が価値観を継承する実践なのかは変わっていく。それゆえに、AIが芸術実践に組み込まれうる未来も来るかもしれない。では、実際に、AIがもしも、私たちの感性の基準そのものを変容しうるとしたら、どんなことが起こるのだろうか。
以上のナンニチェリとブロイの議論は、私たちの現在の、あるいは現在理想とされている評価基準から考えたAIの不快さを明らかにする手助けをしてくれる。これらのAI生成物批判論は、適切で重要な議論だ。だが、私は、AIに対する不快さを覚えながらも、同時に、「AIにしかできない表現とは何なのか」を考えてみたい。それこそが、ファッションの中でAIを用いるデザイナーたちが探し求めているものだからだ。そして、AIが可能にする新しいモードがあるのではないか、とかすかに感じているからだ。
AIはなぜ不快なのか
左:HATRA2025SSコレクションの展示会(編集部撮影)
右:HATRA2023AWコレクションの展示会(編集部撮影)
右:HATRA2023AWコレクションの展示会(編集部撮影)
AIはスタイルを作り出せるか
2010年に設立したHATRA(ハトラ)。そのデザイナーの長見佳祐は、2021年ごろからデジタルツールやテクノロジーに強い関心を示すようになる。 ある展示会に行った時、私は長見に展示会で展示している試作中のシステムを見せてもらった。それは、アーティストの岸裕真の協力のもとに作ったもので、架空のファッションコレクションを様々な仕方で生成してくれるAIシステムだった。そのシステムが作り出すものをみながら語る長見は、とても楽しそうで、新しい世界にわくわくしている探求者や博物学者のようだった。
だが、私は、戸惑いを隠せなかった。本稿で見え隠れしているかもしれないが、私はAIを用いた表現には心動かされたことがほとんどない。私はあくまでも、人間の意志と試みが好きであり、それがないAI表現には関心がない。私は、AIには、「魔法がない」と感じていた。だが、HATRAのファッションデザインには心動かされてきた。その展示会の新しいコレクションも、私に魔法を感じさせた。
ここで「魔法」と言っているのは、少し感覚的過ぎるかもしれない。言い換えれば、自分の好みかどうかはともかく、自分の世界を広げてくれるような驚きや創造的な価値のようなものをイメージしている。AIにピンと来ていない私は、長見がAIとともに見ようとしている魔法を知りたいと思っている。 「Rakuten Fashion Week TOKYO 2025 A/W」で2025年秋冬コレクションを発表した長見佳祐は、ショー直後のインタビューに次のように答えている。
私たちが物事に「衝撃」を求めるとき、何がなされているのか。それは、既存のセンスやフレームを超える何かを探している。それと同時に、それは、既存のフレームから完全に理解不可能ではない何かでもある。例えば、最初、AIの奇妙な出力に人々が感じたのは、衝撃というよりも異常さだった。自分たちが見たことのないものであり、しかし魅力的であるとはいえないような「失敗」した出力だ。 けれど、たんに異常なだけでは、それは私たちを魅了することはない。私たちの既存のセンスや美的判断の基準を超えながらも、しかし、魅力的に思えるような新しいスタイル。それが、新しい衝撃を生むはずだ。
ゲームAI開発者の三宅陽一郎は、そうした魅力的な異常さを期待している者である。私が行ったインタビューの中で、AIと創作というキーワードに対してこう答える。
「AIたちだけの中で流行っているので人間にはよさがまったく理解できない」ようなものだ。それを私は、美術史の中の様々な「キュビズム」だったり「フォービズム」になぞらえて、「ロボティズム」とでも呼べるようなスタイルだろうかと提案してみた。
こうした試みとして、芸術とファッションの中間地点で活躍するのは、アーティストの岸裕真だ。精力的にAIとともに作品を制作してきた。2023年の「The Frankenstein Papers」では、岸によりチューニングされた自然言語処理モデルMary GPTをキュレーターとした個展を開催している(難波 2023)。その後、岸はAIを「エイリアン的知性」と捉え、AIと一体化し、AIとともにダンスを踊る《xoxo-skeleton》という作品を発表している。これは、「人間がAIに操作されるための外骨格デバイス」で、大きな肋骨のような骨格の中で、手足をアームに接続し、AIによって人間が踊らされる(岸 2026)。それは、AIにピンと来ていない私でさえも、魔法を感じさせるものだ。
だが、もう一つ、新しい表現のスタイルが、たんに新奇で異常なものにとどまるのではなく、私たちの既存のセンスと結びつけられながらそのセンスを更新していくためには、私たちのセンスを書き換えていく言葉が必要だ。私たち人間が新しいスタイルを受け取るためには、新しいフレームを作り出すことが必要だ。先程挙げたようなキュビズムにせよ、フォービズムにせよ、私たちが新しい表現スタイルに出合うと、ただ戸惑ってしまう。だが、どのようにそれらを味わえばいいのか、それら自体に教えられながら、そして、それらの味わい方を言葉を通して学ぶことで、全然馴染みのないジャンルや表現でさえ、その味わい方が分かってくる。
そう考えた時、いま、AIを用いた表現に不足しているのは、AI表現の批評だ。AI批評家とでも言うべき存在が足りない。誰もがAIの技術紹介者になったり、新技術に驚いたり、過度な期待を描いたりするけれど、AI表現というものをまともに批評して、「こういうふうにみるべきだ」だとか、「こういうふうにみると、その味わいが深まる」といったAI批評の提案をする者がいないことが問題なのだ。
ファッションにおけるAI表現には批評が欠けている。そもそも、ファッション批評というものはごく難しい。その理由はいろいろあるだろうけれど、私がもっとも重大な要因だと考えているのは、ファッションデザイナーがファッション批評家を兼ねすぎているからだ、と考える。ふつう、表現というものは、その作り手が「このように評価して下さい」と提案するものの、作り手以外の批評家や鑑賞者たちによって「そのように評価しても価値が低い」と批判されたり、「いや、別の仕方で評価できるのだ」と全然別なカテゴリを使って味わってみたり、という自由度がある。その営み自体が別の表現を生んだりする。
だが、ファッション文化がクリエイターにとって残酷だと言えるのは、そうした批評の力が極端に弱く、クリエイターでなければ、ファッションの新しいカテゴリを作ることができないということだ(もちろん、服を着る人は、ある意味でファッションの衣服やアイテムを批評していると言える。別の衣服と合わせることで、新しい装い方をパフォーマンスするのだから。しかし、そのパフォーマンスがデザイナーにどれくらい還元されるものなのかは、私にはあまり検討がついていない)。
つまり、ファッションにおいては、少なくとも現状は、優れたファッションを生み出せるのは、優れた手を持ち、同時に、優れた批評家でもあるという、デザイナーかつ批評家としての天才性を兼ね備えた存在なのではないか。他の美術表現と比較したとき、批評家としてもデザイナーが力を発揮しなければならないというハードルの高さがファッション特有にも思える。 反論は多くあるだろうが、デザイナーの内なる批評家をサポートするような、本質的なファッション批評というものが、それほど多くあるわけではないように思えているのだ。ファッション批評は、デザイナーが使えるような言葉や概念やフレームを、デザイナーに対して提供したり、デザイナーが衝撃を受けるような言葉を(いくらか挑戦的に)提示することができてきたのだろうか? 私はかなり疑いを持っている。
さて、こうしたファッション批評の弱さに基づくならば、AIとファッションの組み合わせというのは、批評の言葉がうまく育っていない領野だと言えるだろう。AI表現に対して、その可能性を発展させるような批評もなければ、ファッションに対する批評もほどんどない。それは、日本にしても、諸外国でも同じに思われる。
それは、デザイナーというよりも、批評家の責任でもある。もちろん、ファッションデザインに直接取り組み、奮闘するデザイナーの才能と創造性を軽くみているわけではない。だが、ファッションデザインにおいて、デザイナーはあまりにも孤軍奮闘過ぎるように思うのだ。
だとしたら、私たちは、たんに長見のようなAIを用いて、AIの海に飛び込んで、その世界からこの人間の世界を見直そうとする試みを称賛するだけではなく、それに対して言葉から競い合うように批評しなければならない。そうしなければ、私たちは別の世界をみることができない。新しい衝撃を受け取ることができない。
本稿は、そのために、AIについて、語ってきた既存の言葉を整理しながら、これから語るべき言葉の方向を探そうと試みた。その具体的なAI批評のための言葉や表現を、私たちは探し出さなければならない。
だが、私は、戸惑いを隠せなかった。本稿で見え隠れしているかもしれないが、私はAIを用いた表現には心動かされたことがほとんどない。私はあくまでも、人間の意志と試みが好きであり、それがないAI表現には関心がない。私は、AIには、「魔法がない」と感じていた。だが、HATRAのファッションデザインには心動かされてきた。その展示会の新しいコレクションも、私に魔法を感じさせた。
ここで「魔法」と言っているのは、少し感覚的過ぎるかもしれない。言い換えれば、自分の好みかどうかはともかく、自分の世界を広げてくれるような驚きや創造的な価値のようなものをイメージしている。AIにピンと来ていない私は、長見がAIとともに見ようとしている魔法を知りたいと思っている。 「Rakuten Fashion Week TOKYO 2025 A/W」で2025年秋冬コレクションを発表した長見佳祐は、ショー直後のインタビューに次のように答えている。
僕は、AIの世界と現実の世界が混同している状態は美しいとずっと思っていますし、それに尽きるんですよね。でも同時に、AIという海の中に飛び込むような感覚というのはずっとあって、その視点から見たときに、アトリエにある普通のありふれた布を見て「なんて美しいんだろう」と思ったり、デジタルの世界から見たときにフィジカルのすごさみたいなものを改めて感じることがある。その往復なんですよね。こちらから見たときに見える新しいものもあるし、向こうから見て「なんて情報量なんだ」と感じることもある。たぶん、それをずっと続けていくんだろうなと思っています(佐々木 2025)
AIによって、人間味のあるデザインを創るというよりは、「AIという海の中」からみてみること、言い換えれば、「AIの世界の見方」を学ぶことで、人間的な世界の見方を別の仕方で観察しようと取り組んでいるように思われる。言うなれば、長見は、AIから「衝撃」を——ここでは、かつての西洋における「黒の衝撃」のような意味でのそれを——、新しい世界を更新する感覚を求めようとしているのではないか。私たちが物事に「衝撃」を求めるとき、何がなされているのか。それは、既存のセンスやフレームを超える何かを探している。それと同時に、それは、既存のフレームから完全に理解不可能ではない何かでもある。例えば、最初、AIの奇妙な出力に人々が感じたのは、衝撃というよりも異常さだった。自分たちが見たことのないものであり、しかし魅力的であるとはいえないような「失敗」した出力だ。 けれど、たんに異常なだけでは、それは私たちを魅了することはない。私たちの既存のセンスや美的判断の基準を超えながらも、しかし、魅力的に思えるような新しいスタイル。それが、新しい衝撃を生むはずだ。
ゲームAI開発者の三宅陽一郎は、そうした魅力的な異常さを期待している者である。私が行ったインタビューの中で、AIと創作というキーワードに対してこう答える。
三宅:AIによるイラストや音楽の自動生成に関して、現段階では人間が喜ぶものだけを作らせていることを疑問に感じていて。なぜ人間が喜ぶアートを作らなければならないんでしょうか? AIたちだけが楽しめる、そんなアートが生まれたらとてもおもしろいと思いませんか?(難波 2022)
三宅は、「AIのあいだで流行っている曲、流行っている服が生まれたらおもしろい」と考えている。「AIたちだけの中で流行っているので人間にはよさがまったく理解できない」ようなものだ。それを私は、美術史の中の様々な「キュビズム」だったり「フォービズム」になぞらえて、「ロボティズム」とでも呼べるようなスタイルだろうかと提案してみた。
三宅:いいネーミングですね。「ロボティズム」を発明できたとき、そのときに始めてAIが人間を超えたと言えると思います。〔……〕もし8次元空間でAIを育てれば、彼らは8次元絵画ができるはずです。(難波 2022)
現在のAIを用いた創作の多くは、「あるある」を再現する力に注力している。それは、人間のセンスから大幅にずれていくことではなく、現在のニーズに沿うようにして、模倣品を生成することを目指しているようにも思う。だが、長見や三宅のように、AIというものが、別の奇妙なスタイルを生み出すことを期待している者はいる。「AIという海の中」に飛び込んでみること。 そうした「AIイズム」のような新しいスタイルをファッションで実現できるとしたら、それはどのようにして可能なのだろうか。長見のようなデザイナーが日々取り組んでいる、ひたすらに頭と手を動かすことが必要なのは確かだ。こうした試みとして、芸術とファッションの中間地点で活躍するのは、アーティストの岸裕真だ。精力的にAIとともに作品を制作してきた。2023年の「The Frankenstein Papers」では、岸によりチューニングされた自然言語処理モデルMary GPTをキュレーターとした個展を開催している(難波 2023)。その後、岸はAIを「エイリアン的知性」と捉え、AIと一体化し、AIとともにダンスを踊る《xoxo-skeleton》という作品を発表している。これは、「人間がAIに操作されるための外骨格デバイス」で、大きな肋骨のような骨格の中で、手足をアームに接続し、AIによって人間が踊らされる(岸 2026)。それは、AIにピンと来ていない私でさえも、魔法を感じさせるものだ。
だが、もう一つ、新しい表現のスタイルが、たんに新奇で異常なものにとどまるのではなく、私たちの既存のセンスと結びつけられながらそのセンスを更新していくためには、私たちのセンスを書き換えていく言葉が必要だ。私たち人間が新しいスタイルを受け取るためには、新しいフレームを作り出すことが必要だ。先程挙げたようなキュビズムにせよ、フォービズムにせよ、私たちが新しい表現スタイルに出合うと、ただ戸惑ってしまう。だが、どのようにそれらを味わえばいいのか、それら自体に教えられながら、そして、それらの味わい方を言葉を通して学ぶことで、全然馴染みのないジャンルや表現でさえ、その味わい方が分かってくる。
そう考えた時、いま、AIを用いた表現に不足しているのは、AI表現の批評だ。AI批評家とでも言うべき存在が足りない。誰もがAIの技術紹介者になったり、新技術に驚いたり、過度な期待を描いたりするけれど、AI表現というものをまともに批評して、「こういうふうにみるべきだ」だとか、「こういうふうにみると、その味わいが深まる」といったAI批評の提案をする者がいないことが問題なのだ。
ファッションにおけるAI表現には批評が欠けている。そもそも、ファッション批評というものはごく難しい。その理由はいろいろあるだろうけれど、私がもっとも重大な要因だと考えているのは、ファッションデザイナーがファッション批評家を兼ねすぎているからだ、と考える。ふつう、表現というものは、その作り手が「このように評価して下さい」と提案するものの、作り手以外の批評家や鑑賞者たちによって「そのように評価しても価値が低い」と批判されたり、「いや、別の仕方で評価できるのだ」と全然別なカテゴリを使って味わってみたり、という自由度がある。その営み自体が別の表現を生んだりする。
だが、ファッション文化がクリエイターにとって残酷だと言えるのは、そうした批評の力が極端に弱く、クリエイターでなければ、ファッションの新しいカテゴリを作ることができないということだ(もちろん、服を着る人は、ある意味でファッションの衣服やアイテムを批評していると言える。別の衣服と合わせることで、新しい装い方をパフォーマンスするのだから。しかし、そのパフォーマンスがデザイナーにどれくらい還元されるものなのかは、私にはあまり検討がついていない)。
つまり、ファッションにおいては、少なくとも現状は、優れたファッションを生み出せるのは、優れた手を持ち、同時に、優れた批評家でもあるという、デザイナーかつ批評家としての天才性を兼ね備えた存在なのではないか。他の美術表現と比較したとき、批評家としてもデザイナーが力を発揮しなければならないというハードルの高さがファッション特有にも思える。 反論は多くあるだろうが、デザイナーの内なる批評家をサポートするような、本質的なファッション批評というものが、それほど多くあるわけではないように思えているのだ。ファッション批評は、デザイナーが使えるような言葉や概念やフレームを、デザイナーに対して提供したり、デザイナーが衝撃を受けるような言葉を(いくらか挑戦的に)提示することができてきたのだろうか? 私はかなり疑いを持っている。
さて、こうしたファッション批評の弱さに基づくならば、AIとファッションの組み合わせというのは、批評の言葉がうまく育っていない領野だと言えるだろう。AI表現に対して、その可能性を発展させるような批評もなければ、ファッションに対する批評もほどんどない。それは、日本にしても、諸外国でも同じに思われる。
それは、デザイナーというよりも、批評家の責任でもある。もちろん、ファッションデザインに直接取り組み、奮闘するデザイナーの才能と創造性を軽くみているわけではない。だが、ファッションデザインにおいて、デザイナーはあまりにも孤軍奮闘過ぎるように思うのだ。
だとしたら、私たちは、たんに長見のようなAIを用いて、AIの海に飛び込んで、その世界からこの人間の世界を見直そうとする試みを称賛するだけではなく、それに対して言葉から競い合うように批評しなければならない。そうしなければ、私たちは別の世界をみることができない。新しい衝撃を受け取ることができない。
本稿は、そのために、AIについて、語ってきた既存の言葉を整理しながら、これから語るべき言葉の方向を探そうと試みた。その具体的なAI批評のための言葉や表現を、私たちは探し出さなければならない。
左:HATRA2025AWコレクションの展示会(編集部撮影)
右:実際に着用してみた画像(編集部撮影)
右:実際に着用してみた画像(編集部撮影)
参考文献
Broy, T. J. "What is Wrong with AI Art?." British Journal of Aesthetics (2026): ayag011.
Nannicelli, Ted. "Artificial Intelligence, The Hedonic View of Appreciation and the Threat of Appreciative Deskilling." The Journal of Aesthetics and Art Criticism (2026): kpag005.
岸裕真、2026年「[INTERVIEW] xoxo-skeleton / Yuma KISHI (with english caption)」
https://youtu.be/Xmxlwxq-TmE?si=pq76a4kMd4TJdu4W。 佐々木エリカ、2025年「「ハトラ」の服の“瞬き”が体験させてくれる、現実とAI世界を行き来した先に見えるもの」
https://www.fashionsnap.com/article/hatra-25aw-report/ 難波優輝、2022年「AIの発展に必要なのは「世界を体験し、老いることができるか」 AI研究者・三宅陽一郎と紐解く“AI進化論”」『Real Sound』https://realsound.jp/tech/2022/11/post-1196224.html。
難波優輝、2023年「AIにキュレーションは可能か? 岸裕真「The Frankenstein Papers」レビュー」https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/the-frankenstein-papers-review-202304
Nannicelli, Ted. "Artificial Intelligence, The Hedonic View of Appreciation and the Threat of Appreciative Deskilling." The Journal of Aesthetics and Art Criticism (2026): kpag005.
岸裕真、2026年「[INTERVIEW] xoxo-skeleton / Yuma KISHI (with english caption)」
https://youtu.be/Xmxlwxq-TmE?si=pq76a4kMd4TJdu4W。 佐々木エリカ、2025年「「ハトラ」の服の“瞬き”が体験させてくれる、現実とAI世界を行き来した先に見えるもの」
https://www.fashionsnap.com/article/hatra-25aw-report/ 難波優輝、2022年「AIの発展に必要なのは「世界を体験し、老いることができるか」 AI研究者・三宅陽一郎と紐解く“AI進化論”」『Real Sound』https://realsound.jp/tech/2022/11/post-1196224.html。
難波優輝、2023年「AIにキュレーションは可能か? 岸裕真「The Frankenstein Papers」レビュー」https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/the-frankenstein-papers-review-202304
【文:難波優輝】
Profiel:1994年生まれ。美学者、会社員。立命館大学衣笠総合研究機構客員研究員、慶應義塾大学 サイエンスフィクション研究開発・実装センター 訪問研究員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。近著に『批判的日常美学について』(晶文社、2026年)、『性的であるとはどのようなことか』(光文社、2025年)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)、『物語化批判の哲学』(講談社、2025年)。








