■都市のコード論:NYC編  vol.05 
レポート
2016.09.23
ファッション|FASHION

■都市のコード論:NYC編 vol.05 
"NYFW(New York Fashion Week/ニューヨーク・ファッションウィーク)"の進化をどうみるか?

在NYC10年以上のビジネスコンサルタント、Yoshiさんによるまち・ひと・ものとビジネスの考察を「都市のコード論:NYC編」と題し、不定期連載しています。

上の写真はブライアント・パークのテント(BryantParkTent)でのショー(2009)。

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 ニューヨークの秋はファッション・ウィークとともにやってくる。

この秋のニューヨーク・ファッション・ウィーク (NYFW) 、いろいろな意味で転機を迎えていることでも注目された。

既に少しだけ報道されているように、アメリカ・ファッション協議会 (CFDA) NYFWのあり方についてボストン・コンサルティングに委託したレポートの結果が2016年3月に公表されたためだ。

ファッション関係者へのインタビューをもとにしたそのレポートによると、従来のモデルが機能していないこと、それを変える必要性については誰もが同意したという。

レポートはいくつかの問題点について概ね次のように指摘している。

インスタグラムなどでショーの様子は消費者もほぼリアルタイムで見ることができるようになったのに買えるのはその6ヶ月後。その間に消費者は飽きてしまい、ファストファッションにコピーする時間を与えている。 

消費者はいまの気候に合うものを買うようになっているが、従来のモデルでは暖かい頃にコートを売り始める。冬本番にはディスカウントされて、小売側も売上をディスカウントに依存する不毛なサイクルに陥っている。

オフシーズンのコレクションによってデザイナーは年中フル稼動を求められ、「クリエイティヴ・ディレクター」とは縁遠いマシンになり果てて消耗している。
 
9月8日(木)〜15日(木)、今秋も2017SSのFWが開催された。個々のメゾンが発表するクリエーションは多くの他誌(ウェブマガジン)に委ねるとして、ここでは、ちょっと違う視点、会場の“ロケーション”を中心に、考察してみることにした。
 
今秋のNYFWはこのレポートにどう反応したのか。ショーの会場をみるかぎり、変化はすでに現れているようだ。

まずは冒頭のマップをご覧いただきたい。これは、
今回ショーが行われた場所をプロットし、まとめたもので、円の大きさはその場所で行われたショーの数を示している。マウス等でドラッグすると、ブランド名が表示され、また拡大や縮小、位置を移動することも可能だ。

会場はショーのゲストのみに通知されることもあるため、マップは必ずしもすべてのショーを網羅してはいない。とはいえこのNYFWにはあきらかな変化がある。

それは会場の数が大幅に増えていることだ。ひとつのブランドだけが利用する会場が増え、より多くのブランドが独自の会場を選ぶようになっていることがわかる。

近年はチェルシー周辺の会場が多かった。ファッションのビジネスが衣類の製造業を中心に形成されたガーメント地区からチェルシーにかけて多いことと無関係ではないだろう。 

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20152月のショーの会場をみるとその傾向がわかる。

上のマップは、
20152のショーをプロットしたものである。20152月はブライアント・パークからリンカーン・センターまで続いた「テント」の時代が幕を閉じたNYFW。多くのショーがリンカーン・センターのテントを利用した。


この秋は伝統的にNYFWと無縁だった地区にもショーが拡がっている。正式会場とされる数ヵ所への集中はいくらかみられるものの、マンハッタンを超えてショーが分散し、中心がより曖昧になっている。

このNYFWでは多くのブランドが大規模な会場を避けて、静かで親密な環境を選んだ。ごく少数の人だけを招待した、よりエクスクルーシヴなショーを行ったブランドもある。

 
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2016年2月に開催されたNYFW、モイニハン駅の会場
「ショーで見てすぐ買える」という、ショーの直後から店舗やオンラインでコレクションの販売を始めたブランドもさらに増えていた。

前回
LA(ロサンゼルス)の世界最大級の旗艦店にて、「brick-and-mortar(ブリック&モルタル)」として、タッチスクリーンや試着室などでハイテクを取り込んだRebecca Minkoff(レベッカ・ミンコフは、今回、ソーホーにある自身のショップ前の路上でショーを行った。NYFWの破綻を宣言し、「See-now-buy-now(ショーで見てすぐ買える)」ということにも早くから取り組んできた彼女は従来のショーに満足できず、実際に着るところに似た場所を会場に選んだという。

Ralph Lauren(ラルフ・ローレン )はアッパー・イースト・サイドの旗艦店前、Rachel Comey(レイチェル・コーミー)ソーホーのホテル前など、屋外の歩道(ストリート)でショーを行った。

Tom Ford(トム・フォード)は歴史に跡を残すかのように、近く移転が予定されているフォー・シーズンズ・レストランでショーを行った。消えゆく場所には独自の魅力がある、ということだろう。


ルーズベルト島やブルックリンなど、マンハッタン以外でのショーはいまや定番だ。ショーを初めてマンハッタンの外にひっぱり出したのはAlexander Wang(アレキサンダー・ワン)だった。

20142月にブルックリンの旧海軍施設内で行われた彼のショーの招待状にUberの割引コードが同封されていたことは記憶に新しい。今回はスポーツブランドのアディダスとのコラボレーションラインが登場。ショーの後に会場ですぐに購入できるようになっていたという。 


Tommy Hilfiger(トミー・ヒルフィガー)16番桟橋に観覧車をもちこみ「トミー桟橋」なる遊園地を準備して、2千人 (半分は消費者向け) をショーに招待した。会場は翌日一般に開放された。


Misha Nonoo(ミーシャ・ノヌー)にいたってはスナップチャットでコレクションを公開し、ショーは行っていない。ショーの分散傾向はロケーションだけではないらしい。
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2011年、リンカーンセンターのテントでのショーのようす

2015年に発表されたニューヨーク市経済開発公社の報告によると、ニューヨークのFWには世界中から毎年23万人が訪れているという。NYFWにやってくる人たちは、市内に約532百万ドルを落とし、1年あたりの経済効果は900百万ドル近くになるそうだ。まさに、NYFWはニューヨーク・シティ・マラソンを上回る一大イベントなのである。

そもそも
NYFWの前身、発端は1943年にまで遡る。
第二次世界対戦中にパリに行くことができなくなった編者者たちがローカルのデザイナーを集めた「プレス・ウィーク」を始めたのがきっかけだ。

その結果、ファッション誌は米国のデザイナーを真剣に受けとめるようになったという。プラザ・ホテルで始まったプレス・ウィークは個人のアパートなどさまざまな場所で続いた。


しかし1990年にMichael Kors(マイケル・コース)のショーで天井が抜ける事故が起きたことで、秩序をもたらすためにショーをひとつの場所に集めることを考え始めた。


そして1993年にブライアント・パークであらためて「ニューヨーク・ファッション・ウィーク(NYFW)」として再スタートし、拡大に伴って20109月にはリンカーン・センターへと場所を移した。


NYFWがブライアント・パークで始まったときには、すべてのデザイナーがひとつの場所に集まることに意義があった。テントはそのアイコンだったのである。


それから20年が過ぎ、NYFWは機能不全に陥っているといっても過言ではない。ショーのあり方や場所、時期など含めて、ひとつのフォーマットがすべてのブランドに等しくあてはまる時代は終わった。ボストン・コンサルティングのレポートはそれを正式に認めたというところだろう。

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従来のやり方が機能していないことがわかっているなら、その同じやり方を続ける理由はどこにもない。ニューヨークは新しい試みには積極的にチャレンジすることで知られる街の代表だ。


CFDAは今後のNYFWの可能性としていくつかのモデルを示唆しているものの、まだ、特定の指針を示してはいない。誰かが処方箋を書いてそれに従わせるのではなく、ソリューションはそれぞれのブランドが模索すべきものだ。そのアプローチもニューヨークらしくはあるだろう。

新しい試みには懸念がつきまとう。消費者を意識するあまりコマーシャルになりすぎはしないか。ファッションの主役はデザイナーなのか、小売なのか。


「着られるもの」だけを求めて人はショーに足を運ぶわけではない。クリエイティヴィティを目撃して驚かされたいがためにショーに期待して足を運ぶ人も少なくない。
そうした問いに答えるNYFWのふさわしいあり方は、それぞれのブランドが一番よく理解しているはずだ。

暫定的とはいえこの秋のショーには、すでに各ブランドのファッションに対する考え方をみてとることができるだろう。


CFDA議長でもあるDiane von Furstenburg(ダイアンフォン・ファステンバーグ)によると、「NYFWには“レヴォリューション (革命) ”ではなく“エヴォリューション (進化)”が求められている」と話す。

NYFWの後はロンドンファッションウィーク、ミラノファッションウィーク、そしてパリファッションウィークときて、最後が東京とソウルとなる。ロンドンやミラノ、パリなどの“進化”については、在住欧州のコントリビューテッド・ライターらにレポートを委ねたい。

(取材/マップ作成:yoshi)


Follow the accident. Fear set plan. (写真をクリックしてください)

トーキョー観光日記
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トーキョー観光日記

アテネの友人から、東京行きの航空チケットをとったから、年末に現地で落ち合おうと連絡があったのは昨年5月のこと。気がつくと12月になっていて、思い出したように慌ただしく週末のたびにオンラインの打ち合わせを繰り返し、クリスマス前のよく晴れた暖かい午後に家族三人が成田に到着した。 おそらく東京の案内を期待されているのだろうけれど、こちらもかなり前から東京で過ごすことが減っていて、パンデミック期にはほぼ入出国上の通過地点になってしまい、もはや東京は空港だと友人たちには伝えていたくらいだから、最近の東京をよく知っているわけではない。ちょうどいい機会だから、このギリシャからの家族につきあって、久しぶりに東京を歩いてみることにした。 ドバイを経由するアテネから成田までのフライトは合計13時間。疲れ果てて到着するものだと思っていたら、三人は思ったよりもずっと元気な姿で現れて、早速四人で東京に向かった。 宿に着いたらしばらくゆっくりしたらいいだろうと思っていると、荷物をおろしたらすぐに出かけるのだと言う。どうやら乗り継ぎのドバイでコーヒーを飲み損ねたらしく、もう一日近くコーヒーなしで過ごしているから、何よりもとにかくコーヒーだということらしい。そして実際に宿に荷物を置くと、一刻を争うようにして歩き始めた。 コーヒーならどこにでもありそうなものだが、なにしろギリシャ人である。コーヒーなら何でもいいというわけではなく、美味しいコーヒーでなければならず、しかも座るに価するコーヒーショップでなければいけない。どんなに素晴らしいことがあった一日でも、その日の締め括りに飲んだコーヒーがひどいものだと、その日は大失敗の一日として記憶されるのだ。美味しいコーヒーといいコーヒーショップは、満足できる一日に欠かせないインフラの絶対条件である。 これまで何度か訪れたアテネで、コーヒーがその生活の大事な場所を占めていることは知っているつもりでいたけれど、東京で一週間を共にしたことで、彼らの一日がどれだけコーヒーを繋ぎ合わせるようにして成り立っているのかを、身をもって学ぶことになった。 四時間も歩くとコーヒーというわけで、ある日の午後、表参道にいたときに、次は神保町だと言い出すから何のことかと思ったら、どうやら神保町にいいコーヒーショップがあるらしいことを聞きつけていて、そろそろコーヒーの時間だから神保町まで行こうというのだ。もちろんコーヒーのためだけに神保町まで行くのである。夏の日差しが尋常ではなく厳しいアテネでは「日陰から日陰へと渡り歩く」というのだと以前教えられたことがあるが、その言い習わしに「コーヒーショップからコーヒーショップへと渡り歩く」というのもつけ加えてはどうだろう。 そうした彼らの一日はもちろんコーヒーショップから始まる。日本に到着した翌朝には、犬があちこちを嗅ぎ回るように近隣のコーヒーショップを物色し、ようやくここならという店に入り座ってみて、その店のコーヒーを数種類試し、店内の様子、窓から見える光景、そしてクッキーなどの食べ物などのすべてのチェックリストに合格したら、翌日以降も毎朝そのコーヒーショップに通いつめるのである。もちろん宿にはコーヒーマシンとコーヒーのセットが備わっているが、朝のコーヒーを宿で飲むなどということは考えにも及ばない邪道らしく、朝になればとにかく外に出て、陽を浴びながら近所のコーヒーショップまで歩き、そして店内に座ってコーヒーを手にしなければ一日は始まらない。この儀式めいた一連の行為にどこか落ち度があると、その日はどんなにいいことがあっても不幸な日となるのである。 やってきた家族三人のうちの父親は、2007年にも東京を訪れたことがあり、母親と子供にとっては今回が初めての日本になる。17年前といえばふた昔も前のことであり、世の中はずいぶん変わっているはずだ。17年前には単身で東京にやってきた彼も、いまでは14歳の子供を連れた家族三人での再訪問というわけで、何よりその家族構成そのものが変わっている。 17年ぶりの東京は、こちらが思っていた以上に変わっているらしい。彼に言わせると、前回は英語の標識がほとんどなく、スマートフォン普及前だったから、つくづく困り果てたらしいが、いまでは少なくとも地下鉄などの標識に関しては英語がほぼ併記されている。 前回の東京では、新宿の「思い出横丁」の路地の店に座って酒を飲んだ一夜が鮮烈に記憶に残っているらしく、今回どうしても再訪したいという望みをかなえるべく、一家全員である夕暮れ時に向かってみたところ、横丁の路地は相変わらず狭いままではあったものの、なんとなくキレイになっていて、人だかりがする見世物じみた場所になっていた。その多くは外国人観光客とみられる人たちで、横丁のエチケットを記載した「ガイドライン」が英語を含む各国語で掲示されている。ひと通り路地を端から端まで歩いてみたものの、何かが変わってしまった横丁に少なからず落胆したらしく、17年前と違って、今回は店に入ろうと彼は言わなかった。「外国人が多すぎる」のだという。 2007年と2024年の何よりの違いといえば、17年前にやってきたときには、浅草や築地を除いて、山手線内のみでほぼ見るところが完結したが、今回はほとんどの時間を山手線の外の地区を歩いて過ごすことになったことである。 アーキテクトとプランナーの夫婦二人だから、世界中どこへ行っても、とにかく様々なネイバーフッドを時間をかけて昼も夜も歩くのが日課だ。この二人にとって、旅をすることは歩くことであり、どこにどんな面白いネイバーフッドがあるのかとなると、東京は中心部の外に当たりを付けたらしい。 欧州の諸都市を隅々まで歩き、北米の都市もよく知っている二人だから、わざわざ東京までやってきて、パリやロンドンやニューヨークにあるようなものは見たくはない。実のところ、どの国であれ大都市を歩くと、たとえばカフェにしても、そのコンセプトからメニュー、そして使用している文字の書体からその色使いに至るまで、そこにお決まりのグローバルな流行りのフォーミュラが否応なく目にとびこんでくるのが常になっていて、そうしたものを入念に避けながら歩かなければならないことは、今日旅をするうえでの不必要なチャレンジだといっていい。 昼前に歩き始めて真夜中前後に宿に戻ってくる毎日を一週間繰り返し、一日の歩行距離は20km前後だったから、極端にたくさん歩いているわけではない。他都市ではもっと多くなることがある。東京の場合にはネイバーフッドが広く分散しているため、電車をより利用することが関係しているのかもしれない。 食べ盛りの14歳の男の子と一緒とあって、一日を歩いて過ごすうえで、昼食をどこでどう済ませるか思案したが、しばらくするとこの家族はコンビニでおにぎりを買って食べることを覚えた。二時間おきに子供が空腹を訴えて不機嫌になると、コンビニでおにぎりを買うことを繰り返し、一日に四五回はコンビニに寄っていたはずだ。ちなみにこの家族のお気に入りのコンビニはセブンイレブンで、おにぎりの取り揃えがいいのだという。 手軽に素早く済ませられるうえに、中にいろいろなものが入っていて、おにぎりはそれひとつで一食が完結する素晴らしい発明だと熱心に称賛しつつ、実際に親子そろっておにぎりの種類を片っ端から果敢に試してゆき、一週間近くすると納豆巻きにまで手を出すようになっていた。どれが何のおにぎりなのか説明しようと思っていたら、その必要はないと言われて、最近のコンビニのおにぎりには英語表記があることを初めて知った。やはり17年前とは違うらしい。 もっとも、おにぎりは間違いなく素晴らしい食べ物なのだが、座って食べられるところがない。東京の座るところのなさ、そしてパブリック・スペースが少ないことは、外国人の間ではよく知られていることだという。今回は冬ですこぶる好天に恵まれたからよかったものの、真夏だととても歩き続けられるものではないだろう。 数日あちこちを歩くうちに、家族三人の関心が小さな店に集まるようになった。東京には小売店にしろ飲食店にしろ、小さな場所で営むところがたくさんある。高架下や駅近くの路地めいた小径には、焼き鳥屋や居酒屋が密集していて、家族が営むところも多い。食事するにしても、コーヒーを求めて座るにしても、「小さい東京」が面白いというわけで、とにかくスケールが小さいところに入ってみることにした。 それは世界中の諸都市で小さな店が姿を消していることの裏返しでもある。アテネもその例外ではない。 初めてアテネを訪れた2010年頃のニューヨークの話題といえば、何よりもジェントリフィケーションだった。再開発が進み、同時に家賃が急速に高騰し、それについていけない低所得者層を中心とする住民が市を相次いで離れ、住民の入れ替わりが進んでいた。そのことをアテネで彼らとも何度も話しをした。 その当時のギリシャは、2009年の破綻危機後の大混乱のさなかにあり、この国に未来はないと考えた若い人たちが英国などEU他国へと次々と移り住み、この夫婦も引っ越すならどの都市がいいのかと、ブリュッセルなどを実際に訪れたりしていたこともある。底の見えない悪化を続けるギリシャからすると、たとえそれがどんなものであれ、仮にも経済的活況をもたらすというのなら、ジェントリフィケーションだろうとなんでも結構、むしろそれをここで起こしてほしいくらいだと友人は言ったものだ。 その後のギリシャは観光強化を一層加速し、外国人投資家による開発を進めた。アテネを訪れるたびに前回訪れたコーヒーショップやバーがなくなっていることが毎回のことになり、しかも決まって、近所のバーや、面白い場所、地元の人たちの溜まり場のようなところが消えてゆく。 一時期はEUの崩壊を招きかねないとお荷物扱いされたギリシャだが、いまではEUでも成長している数少ない国となり、危機時に受けた救済融資を前倒し返済する優等生ぶりさえみせている。もっとも各種の経済指標は好調ぶりを示しているものの、人びとの暮らしぶりはというと、あきらかに以前よりも貧しくなっていて、目に見えない地盤沈下が一層進んでいる。いわゆる住宅危機はアテネでも深刻化していて、住民が住む場所を失っていても、火に油を注ぐような観光ブームに落ち着く兆しはない。オーヴァーツーリズムとよく言われるが、そこで進行しているのは観光とは別なものである。 そうしたアテネや欧米諸都市からすると、東京はその波を全面的にかぶってはいないようにみえる。近年日本には多くの外国人が訪れているというが、おそらくそのことと無関係ではないはずだ。どの都市を訪れるのかはもちろんのこと、どの時点でそこに行くのかも、訪れる者の印象に大きく影響する。この家族と東京を歩いていると、その視線の先にむしろアテネが見えてきた。 観光依存が大きいギリシャでは、飲食業は一大産業である。アテネにも所狭しと飲食店が並んでいるが、近年はどこに行くにも事前予約が必要になっていて、かつてのように誰もがふらりと立ち寄りぶらぶらできるような、気兼ねのないくだけた雰囲気はなくなってきているのだという。地元の人たちが寄りつかない観光客向けの店が、以前にも増してオープンしていることはいうまでもない。 そこへいくと、東京には小さな店がひしめいていて、若い人たちが居酒屋に多いのも特徴的だ。特別な人たちのためではなく、普通の人たちが通う、普通の小さな店がたくさんあり、そして東京ではそれが当たり前なのである。東京は普通だ。そこが東京のすごいところだが、そうしたことに人びとの注意が向かうのは、それが変わってしまったときだということが多いのも事実である。 建物を見たいというアーキテクトの母親に、関心がないながらも道案内として建物見物に同行していたら、ある時点で、アーキテクトの彼女自身が、建物よりも、コーヒーショップに座って人が行き来しているのを見たり、居酒屋でほかの人たちがしていることを見ている方が面白いと言い始めた。そして実際に建物めぐりをやめた。 それは東京にとっていい報せである。建物ばかり見て回る人が多いところは、ここはつまらないところだと言われているようなものだ。そこにどんな人がいて、何をどんなやり方でしているのか、それが都市だ。二人が場所として、飲食店に強い関心を示したことも偶然ではない。そうした場所は、常に多くの人たちで賑わい、良くも悪しくもいろいろなことが起きていて、何より人が集まって話しをしている場所だからだ。 旅とは景色を見ることではなく、人に会うこと、そして人と話しをすることだという人があったが、今回の東京では幸運にもいろいろな人たちと話しをする機会に恵まれた。 何より訪れてみたいと思っていたのは、小伝馬町にあるツバメスタジオだった。音楽スタジオでありながら音楽と関係のない人たちがよく出入りしているらしいことや、以前スタジオがあった浅草橋のビルが取り壊しになる際には「ビルの葬式」と称して30人以上の音楽家を集めて弔いの即興演奏をしたりと、そんなことが日本でも起きていることを知って驚かされて、必ず訪れなくてはいけないと思っていた場所だ。 あいにく三階の展示スペースは閉じていたものの、どういうわけかスタジオにお邪魔することができることになり、ギリシャの家族と全員で押しかけて、あちこちと話しが転々としながらも、「欧米はあまり面白くないし、いろいろとやりづらい」(大意) という言葉が印象的で、ああそうだなあと確信を深めるととともに、音楽の世界にいる人たちの方が、世の中のいろいろなことを敏感に感じとっているように思えた。君島さん、どうもありがとうございました! 音楽といえば、ある夜に訪れた阿佐ヶ谷のヴェニューでは、ステージとの距離が近いことに家族が驚いていた。当然演者とそれを観る客との距離も近くなる。その夜にかぎっては、物理的な距離だけではなくて、演者が食べ物をお裾分けしてくれたり、あれこれ話しをするのはもちろんのこと、最後にはなぜか客も演者も全員で集合写真を撮ることになり、長い旅から帰ってきた旧友に再会でもしたように接してもらえたことにいたく感じ入った家族に「日本はこうなのか!」と言われて、どう答えていいのかちょっと困ってしまった。 そう考えると、演者と客の間に明確に境界線が引かれていて、お金を払って、決まった時間に始まり、決まったことを見て、終わったら帰る、そうした音楽体験が当たり前になっていることは、もっと疑われていいのかもしれない。 そのヴェニューでの一夜を含めて、今回の東京では奇妙に人との距離が近く感じられたことも、「小さい東京」の印象を強くすることになった。子供がいたせいかもしれない。 こちらが子供連れの家族だったためか、友人たちも子供と共に一家全員で出てきてくれて、両親同士が顔を合わせると、当然というべきか、会話はもっぱら学校のことになる。学校がどうなっているのか、給食のこと、英語は何歳から学校で学び始めるのか、日本の歴史の教科書は二千年前から始まるがギリシャでは四千年前から始まることなどなど。結局のところ、どこに行っても人が最も関心があるのは、毎日の生活のことなのかもしれない。 近所に住む人たちが「おばあちゃんの家」と呼んでいるらしい飲食店の二階の座敷席に、子供三人を含む二家族の合計八人で過ごしていると、たしかにおばあちゃんの家にやってきて、親戚が集まっているような気にもなってきた。そして日本人はたくさん飲み食いすることも、「食事に出かける」ことが実質的に「パーティー」を意味することも、このギリシャの家族は学んだ。 いざ歩き始めると早いもので、東京での一週間はあっという間に過ぎてしまった。立ち寄ってみようと思いながら叶わなかった書店がいくつもあるし、年末だったためかスケジュールに何もなかった阿佐ヶ谷のmogumogu、少し気になっていた三鷹の場所はまた次回に。 飲み屋を営む人たちと交わした立ち話しでは、そうした言葉を使わなくても、ジェントリフィケーションのことを耳にした。 あるネイバーフッドでは、この飲食店が昔ながらのこんな商売を続けていられるのは、この家族がこの店の不動産を所有しているからなのだという話しを聞いた。2010年代のジェントリフィケーション最盛期のニューヨークでもよく耳にしたことだ。不動産を取得するのが何よりの自己防衛なのだと。もっとも、そのことが、彼らが好ましく思っていないそのゲームに自ら順応するものであることは考えはしないようなのだが。また道端で少し話しをした人たちのなかには、ここの取り壊しは時間の問題だから、それだからこそいまこの店に「価値」があるのだといった具合に、売り込むような話しぶりをする人もいた。 そうしたものにとび乗り利用する人や、反対する人はどこにでも常にいるもの。そんなことよりも、そうしたことと関係のないところで、自分がしようと思うことを、自分の思うやり方で、自分の手を使ってやっていて、何よりそれを楽しんでいる人たちがいること、そしてそうした場所がまたじわりじわりと現れてきているように思えたところに明るい兆しのようなものを感じ、面白いものはやはりそうしたところから出てくるのだなとあらためて確信したのが、今回のトーキョー観光のハイライトだった。 東京最後の夜には、宿の近くで食事をしようとしたものの、すでに夜が更けていて、さらに年末ということもあったためか、いくつかの店で看板だと断られてしまった後に、賑やかにやっている小さな居酒屋を見つけた。気取ったところが全くない店で、見てくれを気にしない、自宅でつくったような料理が次々と出てくる。あらためて見回してみると、数人の若い団体客が多く、手頃な値段も魅力なのかもしれない。店で働いている人の日本語にアクセントがあるところはやはりグローバル化ということなのかもしれないが、客は誰もそのことに気づかないふりをするように、自分たちの話しに忙しい。そういえば、この家族の子供が渋谷でテイクアウトのケバブ店を見つけて、久しぶりに故郷の味に近いものを得て歓喜した午後があったが、トルコ語が少しできる母親が店主と話しをしたらイスタンブールの人だったということもあった。 その家族にとって、一週間で何よりも印象的だったことといえば、建物でも食べ物でもなく、新宿で食事をした後に別の場所に移動してしばらくしたところで、子供がその日に買い物をしたバッグをもっていないことに気づき、食事した店に電話してみると、店の人が我々のことを覚えていてくれて、バッグをとっておいてくれていたことだという。荷物は翌日に受け取りに行った。 居酒屋の団体客が出ていったと思ったら、終電がとうに終わっているというのに、入れ替わるように女性の集団がどやどやと入ってきて、夜はこれからといった具合に、席につくのも待てない勢いで話しが始まった。どうやらここは、この近くに住む人たちが朝方まで集うところらしい。これはいい店を見つけた。東京ではいつもこのあたりの宿だから、次からはこの普通の店に来ることにしよう。

yoshiさん


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