■都市のコード論:NYC編  vol.05 
レポート
2016.09.23
ファッション|FASHION

■都市のコード論:NYC編 vol.05 
"NYFW(New York Fashion Week/ニューヨーク・ファッションウィーク)"の進化をどうみるか?

在NYC10年以上のビジネスコンサルタント、Yoshiさんによるまち・ひと・ものとビジネスの考察を「都市のコード論:NYC編」と題し、不定期連載しています。

上の写真はブライアント・パークのテント(BryantParkTent)でのショー(2009)。

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 ニューヨークの秋はファッション・ウィークとともにやってくる。

この秋のニューヨーク・ファッション・ウィーク (NYFW) 、いろいろな意味で転機を迎えていることでも注目された。

既に少しだけ報道されているように、アメリカ・ファッション協議会 (CFDA) NYFWのあり方についてボストン・コンサルティングに委託したレポートの結果が2016年3月に公表されたためだ。

ファッション関係者へのインタビューをもとにしたそのレポートによると、従来のモデルが機能していないこと、それを変える必要性については誰もが同意したという。

レポートはいくつかの問題点について概ね次のように指摘している。

インスタグラムなどでショーの様子は消費者もほぼリアルタイムで見ることができるようになったのに買えるのはその6ヶ月後。その間に消費者は飽きてしまい、ファストファッションにコピーする時間を与えている。 

消費者はいまの気候に合うものを買うようになっているが、従来のモデルでは暖かい頃にコートを売り始める。冬本番にはディスカウントされて、小売側も売上をディスカウントに依存する不毛なサイクルに陥っている。

オフシーズンのコレクションによってデザイナーは年中フル稼動を求められ、「クリエイティヴ・ディレクター」とは縁遠いマシンになり果てて消耗している。
 
9月8日(木)〜15日(木)、今秋も2017SSのFWが開催された。個々のメゾンが発表するクリエーションは多くの他誌(ウェブマガジン)に委ねるとして、ここでは、ちょっと違う視点、会場の“ロケーション”を中心に、考察してみることにした。
 
今秋のNYFWはこのレポートにどう反応したのか。ショーの会場をみるかぎり、変化はすでに現れているようだ。

まずは冒頭のマップをご覧いただきたい。これは、
今回ショーが行われた場所をプロットし、まとめたもので、円の大きさはその場所で行われたショーの数を示している。マウス等でドラッグすると、ブランド名が表示され、また拡大や縮小、位置を移動することも可能だ。

会場はショーのゲストのみに通知されることもあるため、マップは必ずしもすべてのショーを網羅してはいない。とはいえこのNYFWにはあきらかな変化がある。

それは会場の数が大幅に増えていることだ。ひとつのブランドだけが利用する会場が増え、より多くのブランドが独自の会場を選ぶようになっていることがわかる。

近年はチェルシー周辺の会場が多かった。ファッションのビジネスが衣類の製造業を中心に形成されたガーメント地区からチェルシーにかけて多いことと無関係ではないだろう。 

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20152月のショーの会場をみるとその傾向がわかる。

上のマップは、
20152のショーをプロットしたものである。20152月はブライアント・パークからリンカーン・センターまで続いた「テント」の時代が幕を閉じたNYFW。多くのショーがリンカーン・センターのテントを利用した。


この秋は伝統的にNYFWと無縁だった地区にもショーが拡がっている。正式会場とされる数ヵ所への集中はいくらかみられるものの、マンハッタンを超えてショーが分散し、中心がより曖昧になっている。

このNYFWでは多くのブランドが大規模な会場を避けて、静かで親密な環境を選んだ。ごく少数の人だけを招待した、よりエクスクルーシヴなショーを行ったブランドもある。

 
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2016年2月に開催されたNYFW、モイニハン駅の会場
「ショーで見てすぐ買える」という、ショーの直後から店舗やオンラインでコレクションの販売を始めたブランドもさらに増えていた。

前回
LA(ロサンゼルス)の世界最大級の旗艦店にて、「brick-and-mortar(ブリック&モルタル)」として、タッチスクリーンや試着室などでハイテクを取り込んだRebecca Minkoff(レベッカ・ミンコフは、今回、ソーホーにある自身のショップ前の路上でショーを行った。NYFWの破綻を宣言し、「See-now-buy-now(ショーで見てすぐ買える)」ということにも早くから取り組んできた彼女は従来のショーに満足できず、実際に着るところに似た場所を会場に選んだという。

Ralph Lauren(ラルフ・ローレン )はアッパー・イースト・サイドの旗艦店前、Rachel Comey(レイチェル・コーミー)ソーホーのホテル前など、屋外の歩道(ストリート)でショーを行った。

Tom Ford(トム・フォード)は歴史に跡を残すかのように、近く移転が予定されているフォー・シーズンズ・レストランでショーを行った。消えゆく場所には独自の魅力がある、ということだろう。


ルーズベルト島やブルックリンなど、マンハッタン以外でのショーはいまや定番だ。ショーを初めてマンハッタンの外にひっぱり出したのはAlexander Wang(アレキサンダー・ワン)だった。

20142月にブルックリンの旧海軍施設内で行われた彼のショーの招待状にUberの割引コードが同封されていたことは記憶に新しい。今回はスポーツブランドのアディダスとのコラボレーションラインが登場。ショーの後に会場ですぐに購入できるようになっていたという。 


Tommy Hilfiger(トミー・ヒルフィガー)16番桟橋に観覧車をもちこみ「トミー桟橋」なる遊園地を準備して、2千人 (半分は消費者向け) をショーに招待した。会場は翌日一般に開放された。


Misha Nonoo(ミーシャ・ノヌー)にいたってはスナップチャットでコレクションを公開し、ショーは行っていない。ショーの分散傾向はロケーションだけではないらしい。
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2011年、リンカーンセンターのテントでのショーのようす

2015年に発表されたニューヨーク市経済開発公社の報告によると、ニューヨークのFWには世界中から毎年23万人が訪れているという。NYFWにやってくる人たちは、市内に約532百万ドルを落とし、1年あたりの経済効果は900百万ドル近くになるそうだ。まさに、NYFWはニューヨーク・シティ・マラソンを上回る一大イベントなのである。

そもそも
NYFWの前身、発端は1943年にまで遡る。
第二次世界対戦中にパリに行くことができなくなった編者者たちがローカルのデザイナーを集めた「プレス・ウィーク」を始めたのがきっかけだ。

その結果、ファッション誌は米国のデザイナーを真剣に受けとめるようになったという。プラザ・ホテルで始まったプレス・ウィークは個人のアパートなどさまざまな場所で続いた。


しかし1990年にMichael Kors(マイケル・コース)のショーで天井が抜ける事故が起きたことで、秩序をもたらすためにショーをひとつの場所に集めることを考え始めた。


そして1993年にブライアント・パークであらためて「ニューヨーク・ファッション・ウィーク(NYFW)」として再スタートし、拡大に伴って20109月にはリンカーン・センターへと場所を移した。


NYFWがブライアント・パークで始まったときには、すべてのデザイナーがひとつの場所に集まることに意義があった。テントはそのアイコンだったのである。


それから20年が過ぎ、NYFWは機能不全に陥っているといっても過言ではない。ショーのあり方や場所、時期など含めて、ひとつのフォーマットがすべてのブランドに等しくあてはまる時代は終わった。ボストン・コンサルティングのレポートはそれを正式に認めたというところだろう。

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従来のやり方が機能していないことがわかっているなら、その同じやり方を続ける理由はどこにもない。ニューヨークは新しい試みには積極的にチャレンジすることで知られる街の代表だ。


CFDAは今後のNYFWの可能性としていくつかのモデルを示唆しているものの、まだ、特定の指針を示してはいない。誰かが処方箋を書いてそれに従わせるのではなく、ソリューションはそれぞれのブランドが模索すべきものだ。そのアプローチもニューヨークらしくはあるだろう。

新しい試みには懸念がつきまとう。消費者を意識するあまりコマーシャルになりすぎはしないか。ファッションの主役はデザイナーなのか、小売なのか。


「着られるもの」だけを求めて人はショーに足を運ぶわけではない。クリエイティヴィティを目撃して驚かされたいがためにショーに期待して足を運ぶ人も少なくない。
そうした問いに答えるNYFWのふさわしいあり方は、それぞれのブランドが一番よく理解しているはずだ。

暫定的とはいえこの秋のショーには、すでに各ブランドのファッションに対する考え方をみてとることができるだろう。


CFDA議長でもあるDiane von Furstenburg(ダイアンフォン・ファステンバーグ)によると、「NYFWには“レヴォリューション (革命) ”ではなく“エヴォリューション (進化)”が求められている」と話す。

NYFWの後はロンドンファッションウィーク、ミラノファッションウィーク、そしてパリファッションウィークときて、最後が東京とソウルとなる。ロンドンやミラノ、パリなどの“進化”については、在住欧州のコントリビューテッド・ライターらにレポートを委ねたい。

(取材/マップ作成:yoshi)


Follow the accident. Fear set plan. (写真をクリックしてください)

近所の食堂
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近所の食堂

「撮影所の人間というやつは、どうしてああ撮影所の近所の食堂というものが好きなんだろう」。 大島渚は大船での時期をのちにふり返り、「めし時だけでなく、ちょっとでも暇があれば、すぐ近所の食堂へ行くのが撮影所の人間だった」と述懐している。 大島が松竹社員として松竹大船撮影所で働いた1950年代後半には、撮影所の近くに4-5軒の食堂があり、松竹関係者が毎日のように利用していたようだ。 小津 (安二郎) 組はいつも「月ヶ瀬」と決まっていて、洋食の「ミカサ」は大庭 (秀雄) 組と中村 (登) 組が贔屓の店、木下 (恵介) 組と渋谷 (実) 組は和食の「松尾」で組食といった具合に、食堂の棲み分けも決まっていたようであり、もっとも木下組と渋谷組が共に常連だった「松尾」では、この二監督の仲が悪かったために、どちらかの組の一党が先にいるとわかると去っていくということだったらしいから、縄張りとでもいう方が相応しいのかもしれない。 撮影所内には社員食堂があり、従業員はそこで食べることもできたのだが、大島自身も助監督として入社して一年も経つとすぐに近所の食堂に足が向かっている。 大島によると、大船撮影所にかぎらず、社食一般は労働と分かちがたく結びついていて、そこには働かされる屈辱、働くために食べさせられることの屈辱の思いがつきまとっているというわけなのだが、それとは対照的に、働かされている意識から解放されて、映画をつくることだけを考えることができたのが近所の食堂だった。 こうして大島は、借金覚悟で近所の食堂で飲み食いするようになる。 午後5時以降の残業には会社から食券が出て、深夜早朝もやっている社食でその食券を使って腹を満たすこともできたのだが、それでも社食は使わないという魂胆なのだから、近所の食堂が繁盛したのは、ほかでもない社食のおかげだったのではないかと考えてもみたくなる。社食があったからこそ、松竹スタッフはその社食を避けて、近所の食堂に集まったのだ。 会社が社食を設ける理由ははっきりしている。社食は効率的に働かせるためのものだが、近所の食堂はそうではない。「松尾」の店内には「食前食後のなにげない雑談のなかから大船げいじつが生れる」という趣旨の額が飾られていたというのもいかにも示唆的だ。 それにしても、なぜそこまで社食は忌避されたのだろう。撮影所から出ることもなく素早く食事を済ませられる、便利で安上がりな手段なのだが、おそらくそれこそが社食が不人気だった理由に違いない。社食には食べること、食事を済ませることしかない。そしてそれは労働のための食事である。一方近所の食堂はといえば、打ち合わせはもちろんのこと、下宿によろず相談と、ありとあらゆることに利用していたようだ。 1936年の撮影所の大船移転と同時に開店した「松尾食堂」は、大船撮影所の前で営業を続けた、かつ丼が人気の近所の食堂だった。 父親が開業した店を女学生の頃から手伝い、その後店を引継ぎ、1973年の閉店まで店を切り盛りした山本若菜の回想録によると、「松尾」は映画監督やスタッフ、そして俳優たちが日夜利用する溜まり場だったようだ。 撮影中は深夜2時にドカドカと当たり前のようにやってくる一行に夜食を準備したというから、決まった営業時間はあってないようなものだったらしく、料理に関しても、それぞれの人の好みを覚えていて、それに合わせて調理をしたという。 駆け出しの美空ひばりに、ほかの監督とは違って助監督ではなく三船敏郎や志村喬といった俳優たちをつれて店にやってきた黒澤明など、スターと著名映画人たちの名が忙しく連なる食堂の物語なのだが、そこでなにより興味をひくのは、著名人たちが残した逸話よりも、その食堂商売の営み方である。 食堂とはいえ、「松尾」は飲み食いを提供するだけの場所ではなかった。家の物置を麻雀部屋に改造して使わせたし、家族の部屋を監督たちが利用できるように提供したというから、「飲み食い以外」の部分も大きな役割を担っていたのは間違いない。「グニャグニャした身体」の川島雄三を店の二階に住まわせ、飲み食いの代金はもちろんクリーニング代の立替をも川島は溜めこんだ。入社して間もない今村昌平も二階の家族の部屋を占領して居候を決め込んだという。 求めに応じてスタッフの洋服の仕立てを行うし、「松尾」店内をセットとして使わせることはもちろん、撮影に店の家具を貸し出して破損して戻ってきたこともあれば、飲みつぶれた客が泊まってゆくのは当たり前のことのようだった。 「お客さんというよりもお友達」と女将はふり返るように、日常的なお裾分けやお土産のやりとりはもちろんのこと、女将やその妹たちが監督などと頻繁に出かけるだけでなく、松竹関係者の旅行に同行したりもするわけだから、もはやお友達以上、家族の延長という方が相応しい間柄だったのかもしれない。結婚が決まった香山美子に玉子焼きの作り方を教えたのも、家族なら当然のことである。 田中絹代や撮影所長などごくわずかな人たちを除いて、「松尾」での飲み食いはツケときていて、なかには溜めこんだツケをついぞ払わず足が遠のき、それっきりになってしまった人たちも少なくなかった。松竹にボーナスが出たら勘定を回収して回るといった具合で、おかげで金策には常に泣かされたらしい。仕入れ先には三ヶ月遅れで支払いをして、税金も滞納し、店が差し押さえになったことを知らずに競売寸前で阻止したこともあり、その結果さらに借金が膨らんだ。 映画人たちの世話をあれこれ焼いていた​そのさまに、これは本当に食堂商売なのかとも思ってしまうが、そこには代金と引き換えに飲み食いさせるだけの、銭金とは異なる種類の経済関係があったと考えるべきなのかもしれない。実際のところ、客商売とはいえ、「松尾」と客の間には、通常の商売関係よりもずっとフラットで対等な関係を感じるし、両者間に長年にわたる強い信頼関係があったことはあきらかである。 ツケを溜め込んだ人が大勢いた一方で、なかには人のツケを払っていったり、自分のツケを払う金がなくても先に同僚のツケを払った人たちもいたというから、その債権債務関係も表向きは店と個人間のものではありながら、より大きな共同体的性質でもあったのかもしれない。 とはいえ「松尾」とて「げいじつ」のために食堂を営んでいたわけではなく、商売であったことは間違いない。 「松尾」の回想録には映画人たちの思い出話が次々と登場するが、そのたびに、川島雄三は13万円強、中平康は1万円といった具合に、店に残したツケに詳細に言及するのは、まぎれもない商売人による松竹関係者に対するささやかな復讐というわけなのだ。借金覚悟で近所の食堂で飲み食いを始めた大島渚といえば、その覚悟通りに24,820円のツケを「松尾」に残し、小山明子が一年後に支払い精算している。 その「松尾」も晩年にはツケの飲み食いはぐっと減り、現金で払う客が増えたというから、経営は少しは楽になったに違いない。ただ女将に言わせると「世話を焼かせ情を移す人が少なく」なったということでもあったらしく、それはお友達であり、家族の延長のような客がより客らしくなり、​映画人たちの賑わうハブ (溜まり場) が純然たる食堂ビジネスになってゆく過程でもあったようだ。 その過程は今日もあちこちで続いている。 よく顔を出す馴染みの店がある者なら誰でも知っていることだけれど、人はビールのためにバーに行くわけではない。バーに行くことと、ビールを買って自宅で飲むことは、全く別のことなのだと説得を試みても、わかってもらえないことがある。バーをビールを飲む場所と変換してしまうと、たしかに自宅でビールを飲むのと変わりはしないということになるが、それは社食も近所の食堂も食べることに変わりはないと考える、社食の発想というものである。 ​​バーの大事な部分は「ビール以外」のところにある。実際バーでは毎日いろいろなことが起きている。バーでパートナーと知り合ったというのはよくある話しだが、大昔は仕事を探しに人はバーに出向いていた。そこはいろいろな情報が飛び交う場所であり、求人情報を得るのに相応しいところだったようだ。もちろん求人はその後バーから切り離されて、それ自体独立した一大産業になっている。 同じようにパートナーを見つける場所は、出会い系アプリになりつつある。ある時期Tinderに明け暮れていた知人が「バーに入って誰かいい人がいないか見回してみたり、そんな悠長なことはもうできない」と、プロファイル写真が次々と流れてくるスクリーンを見ながら、アプリの利点を説明してくれた。実際その彼はアプリでパートナーを見つけて、いまはすっかり落ち着いている (そしてバーにはまだよく来ている)。なるほど出会い系アプリには出会いたい人たちだけが、出会うことを求めて集まってくる。同じ目的を共有しているし、そこに目的はひとつしかない。それ以外のことは、そこではまず起こりそうにないし、たぶん起きない方がいいのだ。その意味では、出会い系アプリは、バーよりもむしろ社食に近い。 ​​バーはパートナーを探しに行くところではない。それでもバーで人と知り合うことはよくあることなのだ。それが場所としてのバーの優れた点でもある。バーが人と出会うことだけを目的とする場所になってしまったら、その目的を達成するには便利かもしれないが、おそらくそこにいることそのものを楽しめる愉快な場所ではなくなってしまうだろう。 人はいろいろな理由でバーにやってくる。友人と会う約束をしている人もいるし、酷暑の夕方に冷えた休憩場所を求めて足を踏み入れるかもしれない。うまくいかなかった長い一日を忘れるためにやってくることもある。一番いいのは、目的などなくぶらりと立ち寄り、バーの席で特に何もせずに、バーテンダーとちょっとした愚痴を交わして、周りの客をぼんやり眺めていたりすることなのだが。 それでもそこに座っているだけで、いろいろな話しが耳に入ってくるだろう。初めてディールをクローズしたばかりの新米不動産エージェントが興奮気味に取引のことを事細かに話しているのが聞こえてくることもあるだろうし、バーで場違いな音楽をかけて周囲を不愉快にさせる行為をロバート・ワイアットからとって「ワイアッティング」と呼ばれていることなど、少しも役に立ちそうにない話をたくさん仕入れることができる。 最近ではレストランの食事を自宅に届けてくれるサーヴィスが人気だが、それも飲み食い以外の部分を削除しようとする企てなのかもしれない。外に出ずに自宅に届けられた食事を素早く流しこみ、そしてすぐにスクリーンに戻ろうというわけだ。ひょっとしたらスクリーンを見ながら食べている可能性もある。紛れもない自宅の社食化である。 本を売ること以外の部分を削ぎ落としたビジネスがオンライン書店だ。オンライン書店と実店舗書店を全く別種のビジネスとして扱うことが多いようだが、「書店は本を売るところ」と限定的に規定したうえで、「それ以外」の部分をすべて排除しつつ、規模の経済を追求しているのがオンライン書店と考えることはできないだろうか。そう考えると、オンライン書店はそれほど目新しいものでもなく、むしろ大昔からのビジネス原則をより徹底するうえで有利な条件を与えてくれるのがオンラインだったともいえる。 オンライン書店が「本を売るところ」であるように、コーヒーショップは「コーヒーを買うところ」、映画館は「映画を観るところ」になっている。当たり前に聞こえるかもしれないが、それが当たり前になったのは実は意外と最近のことらしい。 たとえば映画館は映画の上映だけではなく、弁士の存在をはじめ、歌姫が歌い、そして観客も一緒に歌う場所であったし、そうした館内でのライヴ・パフォーマンスは1980年代まで続いていたという。多くの人が集まる映画館では、映画を観ること以外の実に雑多な多くのことが行われていた。ニューヨークでも比較的最近まで、夏は冷房を求めて映画館に向かう人が多かったし、エアコンが行き渡った今日でも、熱波がやってくると映画館は決まって客入りが増えるのだ。映画館は涼むところでもある。それでも観客の均質化は避けられず、​​「映画館は映画を観るところ」としていまやほぼ定着している。 本来的に多目的で、用途を限定していなかった場所が、几帳面に分節されて、「それ以外」の部分が切り落とされる結果、場所の利用方法が一義的になる。 近年のコーヒーショップが凝った製法のコーヒーを競う舞台になっているのも、その兆候のひとつなのかもしれない。コーヒーを求める者からすると、洗練された美味しいコーヒーが手に入るのはたしかに有難いことだけれど、飲み物そのものに傾注し、「コーヒー以外」の部分が切り落とされることにもなりうる。一時は「サード・プレイス」を謳っているようにみえたコーヒー店の世界的大企業も、いまでは熱心にテイクアウト専門店舗を拡張し、既存店舗から椅子を撤去したりしているのをみると、この潮流に逆らうのは無理なのかとも思えてくる。 ニューヨークのように危険で猥雑だった街が安全で清潔になりはしたものの、同時に何か肝心なものも失われてしまったように感じることを、sanitizeという言葉を使って表現することがある。殺菌消毒により浄化されて、どこかよそよそしい澄ました顔の都市になり、表向きはどうであれ、根本的に別の街になってしまったように感じるということなのだが、分節が進む過程には、それと相通じる​​ところがある。 その点バーには不純なところが色濃く残っている。たとえば人はサッカーは観るためにバーへ行く。もちろん自宅でも観ることもできるが、やはり自宅とバーは全くの別物なのだ。その差はビールでもテレビの大きさでもなく、ほかの観衆の存在にある。飲み物さえ買えば、依然多目的スペースに近いのがバーである。飲酒の場所と純化して考えてしまうと、バーは面白味に欠けるばかりか、孤独で悲しいところである。 スポーツ観戦といえば、寒い日曜日にいつものバーに足を踏み入れると、店内に客の姿が見当たらず、「一体今日はどうなってるんだ」と言い出す前に「スーパーボウルだよ」と告げられるのが毎年2月の恒例になっている。スーパーボウルの夜は、アメリカ文化を解さない外国人ぐらいしかバーに人はいない。同じスポーツ観戦とはいえ自宅のテレビ前に陣取るのが儀式であるのは、分節が進んだ米国ならではのことなのか。もちろん外のバーに向かう人たちもいるけれど、そこには「スポーツ・バー」なるものが存在し、やはり細かくセグメント化された観衆向けのバーが準備されているところもまた米国的なのである。 こうした専門化、あるいは蛸壷化は脈々と進行しているようだけれど、ばらばらに切り離された部分を、以前とは異なるやり方で再結合しようとする人たちがいることは大きな望みである。 一部の書店や映画館がそうした試みを続けていることはよく知られている。近年の独立書店やアートハウス/ミニシアターのことはあちこちで詳しく伝えられているから、ここで蛇足を加えることはしないけれど、それは本を売ること以外のこと、映画を観ること以外のことに注目し、果敢に再導入しているものと考えることができる。そして、そうした書店や映画館が、その商売を営む場所と近隣のことを強く意識していることも注目される。 書店、コーヒーショップ、映画館のような場所は「社会的インフラ」として知られてもいる。ビジネスでありながら、同時に社会における欠かせない役割を果たしている場所というわけだ。社会的インフラは「文化的」な場所である必要はなく、米国では金物屋やいわゆる万屋なども同様の役割を果たしていたが、近年では大都市を中心としてそうした店舗が急速に減っている。 […]

yoshiさん


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