ここ数年、コーヒーの話をよく耳にする。ニューヨークではコーヒーハウスがあちこちでオープンしており、そのなかのいくつかは日本にも出店し、話題となっている。書店でコーヒーが飲めるのは当たり前になり、コーヒーを出すアパレルの店舗も少なくない。
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2020年春のある日、ウェスト・ヴィレッジの歩道にベンチが現れた。 近所の人がアパートからもち出して置いたものらしい。ニューヨークがパンデミックの最悪期にあった頃だから、アパートに閉じこもる生活に飽き飽きした人が外の空気を求めていたのかもしれない。 その頃から、市内の歩道のあちこちでイスを見かけるようになった。パンデミック以前からニューヨークの歩道にはイスを置いて座る人がよくいたから、外に座る人が増えたといった方がいいかもしれない。 市が公園などに設置したものではなく、小売店が顧客のために店舗前に置いたものでもない、そこに住む人たちが自分のためにもち出した歩道のイスを集めてみた。 ニューヨークの歩道はストリート・チェアの豊かなコレクションを成している。それは雑多なイスの展示会のようであり、同時にそのイスの向こうに、ここに住む住民のストーリーや、この都市がどのように働くのかが見えてくる。 都市の役割のひとつは、逃げ出す場所を与えることだ。パートナーと口論になって頭を冷やしたり、親と一緒にいたくない子供が友人とつるむには、自宅以外の場所が必要になる。自宅があれば自分の居場所がある、そういうわけにはいかない。結局のところ、ここに住む誰もが、新天地を求めてやってくる移民とそれほど変わりはしない。 イスを外にもち出して、自分の「サード・プレイス」をつくろう。そこではいろいろなことができる。腰かけてお茶を飲むこともできるし、行き交う人たちを眺めるだけでもいい。壁に耳あり通りに目あり。近所の人たちとゴシップを交わせば、その情報はたちまち人から人へと伝搬されることになる。 イスを置くだけで、空間や人との関係は変わる。歩道をカスタマイズすることは、通りに自分の場所を残すマーキングのようでもあり、ストリート・チェアにはグラフィティと似たところがある。 ブルックリンのベイ・リッジに置かれたこのイスとテーブルは、あきらかに誰かが通りでいい時間を過ごすために設けた席だ。しかも灰皿付き。おそらく上の階に住む人がときどき降りてきて、この席に座っているのだろう。 通りを行き交う人たちを眺めながらの一服は、さぞかし気分がいいに違いない。閉じた店舗の前はストリート・シートの絶好のポイントだ。 通りに座っていると、まず間違いなく話しかけてくる人がいる。家を出て一人でいることもできるし、通りでほかの人たちと一緒にいることもできる。そのどちらかしかできないのは不幸なところだが、その両方ができるのがストリート・チェアだ。 見知らぬ人たちとの接触は、好ましいこともあれば、ありがたくないこともある。とはいえ都市に暮らすということはそういうことなのだ。 それでも通りに座ることは、愉しみに結びついていることが多い。ブルックリンのイースト・ウィリアムズバーグでは、イスとテーブルを並べてパーティーの準備は完了。 イスをもち出すだけでいいわけだから、ストリート・チェアはおよそ考えられる限り最も簡便な、自分の居場所をつくる方法でもある。イスの一脚くらいはたいていもっているだろうから、誰にでも今すぐに実行できる。 自分のイスを持ち出すことには利点がある。好きに動かすことができるし、自分の好きな場所に置くことができる。自分で置いて、自分で片付ける。市や誰かに準備してもらったり、ここでこうしろと促される筋合いのものではない。 当座の間に合わせであるストリート・チェアは常に束の間の存在であり、どこかに固定されることはない。明日イスを出したときには、昨日とは少し違った場所に置くことになるし、気が向かなければさっさとイスをアパートにもって入ることになる。 実際ストリート・チェアは気まぐれで、突然現れたかと思うと、翌日同じ場所に行くとなくなっていることがある。そして数日後に、以前とは違う場所に見覚えのあるイスが再び現れたりするのだ。 ハウストン・ストリート近くのこの通りでは、イスを二脚並べることで、自動車の駐車を禁じていた。おそらくこの駐車レーンで何かをするつもりなのだろう。 イスはいわばジェスチャーでしかなく、バリケードのように自動車の進入を物理的に阻止する力や、その要請に従わせる拘束力はない。それでもその場所の「先約済み」を示唆することで、自動車の利用者と折衝し、駐車を抑止することに成功している。 都市の通りは利害がぶつかるポリティクスそのもの。イスを置くことで、実力の行使とは異なる、周囲に働きかける力が生じる。イスで空間との関係を書き換えている好例といえる。 イスではないものをイスとして使う場所は数多い。イースト・ブロードウェイの一角にはパレットを積み上げたものがベンチとして利用されている。 座ることを目的としてつくられたものなのかどうかはわからないが、そんなことはどうでもいい。適度な高さで座ることができる場所があれば、人は必ず座るものだ。木が陰をつくっていることも、座るのに適した条件を与えている。 この一角にはいつも人が集まっている。特に何かをしているようには見えず、これからどこに行こうかと話しているのかもしれない。座る場所があるだけで人は寄ってくるし、人を招く力がある。 その同じイースト・ブロードウェイの交差点近くには、所有者がはっきりしないイスがよく放置されている。鍵つきのワイヤーで標識にくくりつけられているところを見ると、誰かがこの場所に「保管」していて、撤去されると困るものだと思われる。 この一角にはよくお粥を売る人がいるから、彼女が利用するイスなのかもしれない。寒い日の午前中には、お粥を求める人たちが列をつくっている人気店だ。 それにしても、人のいないイスがその不在の人をより強く感じさせるのはなぜだろう。 食品や日用品を販売する街角の小さな小売店を、ニューヨークでは「ボデガ」と呼ぶ。家族が経営することが多く、飲料水を買いに走ったり、早朝にサンドウィッチが欲しいときに頼りになる存在だ。小売店でありながらネイバーフッドの要衝であり、そこで果たす役割は大きい。何よりボデガを営む人は、近所に住む人たちを誰よりもよく知っている。 ボデガの前にはイスが出ていることが多い。店主が座るためのものだ。休憩中の店主が座るところに友人がやってきた場合には、店から別のイスを出してきて二人で座る。また誰かやってきたら、またイスを出して三人で座る。そういうわけで、まったく不揃いなイスが店の前に並ぶことになる。夏の夜には外に座って涼むのもいい。 冒頭で小売店のイスは対象外にすると言ったが、客向けではなく、店主が自分のために置いているものだから、ボデガは例外として扱いたい。なによりボデガはストリート・チェアとの相性が抜群にいい。 もう一つの例外として、歩道で占いを営む人もあげておきたい。固定したオフィスをもつわけではなく、イスとテーブルを置いたところで始めるストリート・ビジネスだ。多くの人が通り過ぎる公けの歩道で、ひときわ個人的で内密な話しに没入するコントラストが際立っている。喧騒の真中で他人に邪魔されない場所をつくることは意外と簡単にできる。 ところで外に座るというと、なにか好ましくないことのように思う人がいるらしい。「ちゃんとしていない」というわけだ。 たとえばネイバーフッドで考えてみると、マンハッタンのミッドタウンにはストリート・チェアはありそうにないと思うかもしれない。高層がひしめくビジネス街には不相応に思える。 実際にはビジネス街でも人は外に座っている。しかもパーク・アヴェニューのシーグラム・ビルディングの前のステップによく座っている。ミース・ファン・デル・ローエによるあの高層建築の前に、である。 あいにくステップに腰かけている写真はないが、この近辺で働いているスーツ姿のビジネスマン (ここに座るのはたいてい男性) が複数人で腰かけていることが多い。天気がいい昼時なら尚更のこと。 ここに座ってどんなディール案件のことを話しているのかと、つい近寄って聞き耳を立てたくなる。 このステップに人が座っていることを知ってミースは驚いたというから、それは彼の意図ではなかったのだろう。このステップの角度は20度。人が座るためには角度は30度以内にすべしということだから、座りやすい角度ではある。なにしろ都市の住民は、あらゆるモノやコトを、その発案者が意図しない用途に使い始めることに長けている。 ハイモダニズムは人を寄せつけないなどと誰が言ったのか。パブリック・スペースに関してはとにかく評判の悪いモダニストだが、ミースは例外といえそうだ。 イスではないところに座る人たちは、街のあちこちで目にするありふれた光景だ。座るのにイスは必要ない。 メトロポリタン美術館はその典型的な例と言える。入口へと向かう階段はいつも人でいっぱい。あの迷宮のような建物の中を何時間も歩き回ったあとには、座りたくなるのも当然。これは正しい階段の使い方というべきであり、おかしいところは何もない。ちゃんとしている。 このメトロポリタン美術館前の歩道には、忙しくホットドッグを売る人がいる。ホットドッグを売る者なら誰しもこの場所にカートを構えることを望むといわれるが、実際には熾烈な競争や巨額のライセンスを前にして断念せざるをえない。 この場所が人気の理由は誰にもすぐにわかる。人通りが多いだけでなく、ゆったりと座って、不愉快な思いをせずに、好きなだけ時間を過ごす (=食べる) ことができる場所はそれほど多くはない。 42丁目のニューヨーク公共図書館の本館前も同様の状況。階段に座って食べ物を食べている人が多いのも、メトロポリタン美術館と同じ。 この本館裏のブライアント・パークには多くのテーブルとイスが準備されていて、常に多くの利用者で賑わっている。ニューヨークの公園のイスといえば、ブライアント・パークのあの緑色のフランス製のイスを思い浮かべる人もいるだろう。それでもアイコニックなブライアント・パークよりも、こちらの本館前の方が面白い。イスではないところに座る人が多いからだ。 目をひいたのは、目の前にイスとテーブルがあってもそこには腰かけず、座るための場所ではないところにわざわざ座る人。奇抜な行動ではなく、むしろ都市の本領というべき行動だ。 ランチを外で食べる人はあちこちで見かける。食べることは、外に腰かけてする人気の行動のひとつ。イスはいらない。ちょっとした段差があればいい。ひょっとしたらイスではない方が、人は座りたがるということはないだろうか。 ユニオン・スクエア。こうして見ると、公共のスクエアは、座るためにあるとさえ言えるのかもしれない。人が座っていないパブリック・スペースがあれば、そこは何かがおかしい。 同じくユニオン・スクエア。ほかの人と一定の距離をおいて座る人たち。手すりの支柱を背もたれとして使っていることにも注目したい。 外に座っている人がよくいると言うと、「そこで何をしているのか」と聞かれることがある。何をしているのか実際に見てみると、一人で座っている人はぼんやりしたり休憩している人が多く、複数人の場合は話をしている人たちが圧倒的に多い。ほかの人と一緒にいて、それ以外にすることはありそうにない。 座ることに理由や目的は不要。ぼんやりすることだって「する」ことだし、外でぶらぶらすることは都市の特権といっていい。時間や場所は資源であり、有意義に活用しなければいけないといった衝迫から解放されること。外に座ることの何よりの愉しみはそこにあるのかもしれない。 こちらはファイナンシャル・ディストリクトにある屋内のウィンター・ガーデン。オフィス・タワーの一階部分がパブリック・スペースになっている。 誰でも利用できるテーブル席がいくつもあるというのに、いつもこの階段に座っている人たちがいる。階段に座ることにはなにか特別な魅力があり、実はテーブル席よりも階段の方が座るのに相応しいのではないかと思えてくる。 … Continue reading "街に座ろう"
yoshiさん