ここ数年、コーヒーの話をよく耳にする。ニューヨークではコーヒーハウスがあちこちでオープンしており、そのなかのいくつかは日本にも出店し、話題となっている。書店でコーヒーが飲めるのは当たり前になり、コーヒーを出すアパレルの店舗も少なくない。
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つながりは足下にあることに意味がある。遠方よりも近所の人や場所との関係を人はあらためて見直しているらしい。 ICEの移民取締活動に対してミネソタの住民が組織化したことについて以前ポストした。二人の米国市民の命を奪った蛮行に反対して、住民たちが酷寒のなかを日夜近所の通りや学校周辺を自発的にパトロールしたり、不審車を見かけた場合には近隣住人と情報を共有し、またエージェントの活動を撮影して記録した。普通の住民の活動である。拘留をおそれて外出できない近隣の人たちのために食料や日用品を手分けして集めては届け、家賃を払えない人たちのために資金も集めた。 それを「ネイバーイズム」と評した雑誌があった。住民が互いに支え助け合う隣人主義である。ミネソタで組織化を支援した人は「この状況下でこれまでのところ最も有効な安全策は、近所の人たちを知ることだ」と強調した。いつ助けを要することになるかわからない。連絡をとり安否を確認し合うことが人を安全にする。災害時に近隣の重要性が前景化するのはよくあることである。 ミネソタ がいかにも非常時の特殊例だというなら、ありふれた日常にも隣人主義は現れているらしい。予期しない事情で急遽家を一時間空けなければならなくなった親が近所の人に子どもをみてもらうなど、物理的に近くに住む人たちの間でちょっとしたことを助け合うものである。大きな家具を動かすのに手を借りたり、なにかあったときのために家の鍵を隣人に預ける人もある。隣人間のインフォーマルな手配で対処できることは少なくなく、いざというときには遠方の親類友人よりも隣人のドアをノックする方が間違いがなく頼りになるというわけだ。 日本なら「醤油を借りる」というべき関係だが、英語には「砂糖を借りる」という言い方がある。隣人に砂糖や小麦粉それに卵を借りることがかつて当たり前だったのは米国も同じようである。どちらの国でも隣人を仲介するのが食べ物であるのは偶然というべきだろうか。よく知られる「パンを裂く」は共食を通じて関係を深めることである。日本には多少古めかしいが「同じ釜の飯を食う」という表現がある。生活の食べ物の匂いと隣人はどこかで分かちがたく結びついているのかもしれない。 いつも近くにいて会うともせず会い、他愛のない言葉を交わす昔ながらのご近所さんの再発見というわけだが、そこに今日的な機微があるとすれば、誰もが時間に追われ、懐事情もいよいよ厳しくなる世の中が、生活の自衛策として近隣の人たちに向かわせているところだろうか。公式のいわゆる仕組みが破綻していることの裏返しでもある。必要に迫られた苦肉の近所づきあいに聞こえなくもないが、それでもそこから、騒音などの「隣人とのありがちなトラブルのなによりの解決策は隣人と友人になることだ」といった箴言的な隣人理解に至る人もあるというから、入り口にこだわる必要はないのかもしれない。問題を解決しない警察やアプリに手がのびるよりはずっといいはずだ。 近隣志向は意外なところにもみられる。レストランの世界である。 フリン・マクギャリーが昨秋オープンしたレストラン「コーヴ」が注目を集めている。12歳でロサンゼルスの自宅で食事を一般客に出し始め、16歳のときにニューヨークに移りポップアップ店にとりかかり、19歳で開業した店が成功を収めた料理界の寵児の次の店とくれば当然である。店はマンハッタンのダウンタウン、ハドソン・スクエアにある。トライベッカとウェスト・ヴィレッジに挟まれていて、そのどちらにも近接するが、そのどちらでもない。話題店にはいささか疑問の余地のある場所はあえて選んだものだという。 マクギャリー自身の言葉によると、その店は「ネイバーフッドのレストラン」である。近隣の人たちがやってくる気取りのない近所の店のことだ。面白いのは彼がその店のアプローチをメディアとの関係にみているところである。 レストランの流行り廃りの背後にはニューヨーク・タイムズのようなメディアが長らく存在していた。同紙の評者が激賞すれば一夜にして予約がとれない大人気店になり、酷評すると店がやっていけない状態にさえ追い込まれた。店に現れたときに身元が割れないように、いわゆるレストラン・クリティックは名前は出しても顔は秘匿するのが長年の慣しだった。その発言に多大な力があった証である。 そうした世界はもう存在しない。メディア環境があらゆる意味で壊れたことはいまさら繰り返す必要はないだろう。大メディアのレストラン評はその影響力を失い、今日タイムズ紙は顔を公表している女性評者二人をクリティックとして任命しているが、その試行錯誤の有様はちょっとしたアイデンティティ・クライシスにみえなくもない。 他方にはソーシャル・メディアがある。オンラインでバズればたちまち人は殺到するが、店にとってありがたいかどうかはまた別のようである。写真を撮るためだけに群がる人たちも多く、ニューヨークの賢い飲食店オーナーたちは、店がダメになってしまわないようにとソーシャルで話題にならないように入念に手を尽くしていると聞く。 マクギャリーに言わせると、レガシーであれソーシャルであれ、メディアは彼にコントロールできるものではない。ゲートキーパーが立ちはだかっていた頃には、多くの店が権威ある評者に向けて店をやっていたようなところがあった。一片の記事があらゆる労力を台無しにもしてしまうわけだから当然ではある。かたやソーシャルの移り気の速さは手のつけようがない。そうしたものと関係のないところで店を営むのがマクギャリーの考えであり、それが近所の店である。 ゲートキーパーの失墜は流行を追いかける店には北極星を見失うようなものだが、自分のやり方を探索する者には解放である。オープン直後に人が殺到するバジーな店よりも、時の経過とともに常連客が醸成されて、客が徐々に増えていく方が好ましいというのがマクギャリーの考えらしい。オーディエンスは自分で築くものであり、客との信頼関係を築くにはなにより時間を要する。どの店も近所の店になるべきだと主張するそのシェフは27歳にしては落ち着いた考えの持ち主にみえるが、実は今日の若い人たちはこうした考えを広く共有しているのかもしれない。 近所の店のあり方は、ロンドンやドバイへの拡張を志向する従来の話題店のプレイブックとは異なってみえる。たとえば近年VCがベーグルに熱心に投資しているという。ベーグルはニューヨークなどの少数の都市の名物として知られる、場所に強く結びついたフードである。高品質のベーグルをつくるには多くの手間と時間を要し、文字通り手づくりの過程も欠かせないため大量生産が難しく、利益が少ないことでも知られる。多くのベーグル店が家族経営で小さな近所の店である理由でもある。それをマネーとテクノロジーでスケールしようというのがVCの目論みのようだ。 ついでに最近のフード周りのメディアについて雑記を残しておこう。読者が大メディアを離れるのをよそに、新たなメディアが立ち上がり、オンラインを中心に数多くの新進メディアが共存する風景が現れつつある。外部の投資家を入れずにジャーナリストが共同所有するコレクティヴとして運営しているところが多いことも、昨今のメディア一般と傾向を共有している。 こうした雑誌がとりあげるのはレストランに限らない。従来考えられなかったような風変わりものをとりこみ、フード雑誌の領域を書き換えようと挑むようなところがある。2017年に始まったTASTEは最近の記事でコストコを米国食文化の柱として称賛した。 焦点をハイパローカルに絞りこみ、可笑しくも率直な意見を展開するのが新進雑誌の特徴でもある。政治性のアングルは欠かせず、飲食店の悪評高い労働慣行をはじめ、政治抜きにフードを語ることはナンセンスというのが共通認識のようだ。見あたらないのはライフスタイル記事の類である。 高所から説教するような高級紙とは対照的に、生活に根差した視点でフードを新たなアングルから問い直そうとするものが多いなかでも、Civil Eatsは商品としてのフードではなくその生産—特に住民自身の手による生産—の様々な実践のありようを果敢に探り続けている。最近では他人の庭を農地として無料で利用するかわりに収穫した作物を家主に与えるミネソタの実験的CSA (地域支援型農業) に取り組む二人組の話が印象的だった。そのCivil Eatsがフード界のアカデミー賞といわれるジェイムズ・ビアードのメディア賞に今回ノミネートされたことは、この世界の風向きの徴といえるのかもしれない。受賞者の発表は6月半ばに予定されている。 この春にローンチしたばかりのRavenousを読んでいると、共同創業者のジャーナリストの一人が、フードのことをするにはやはりニューヨークに引越すべきかと考えていたが、思い直してテキサスにとどまり、地元のおかしな飲食店やチェーン店など自分がしたいことをしようと思ったと記しているのが目をひいた。一種の「ハブ離れ」である。 自分が住む場所に根づき、近隣の人たちとの関係を強める近隣志向は場所の復権でもある。ルーツとなる場所を離れ、はるか遠くを浮遊することが成功のモノサシとされたこの数十年に終わりを告げて、物理的な場所が再び重力をとり戻りつつあるのかもしれない。そこにシフトしつつある都市をめぐるナラティヴと遠くで共鳴するのが聞こえる。 2020年以前には世界の諸都市をグローバルな競合関係と捉える見方が支配していた。一部のアーバニストやエコノミストによると、競争力とはほかの場所から人やマネーを集める力のことであり、人材、大企業、外国人投資家、観光客—その都市に住んでいない人たち—に訴えかけることが市長の仕事であり、それが都市の魅力だと枠付けされた。そこにいる住民ではなく、遠くにいる人や企業に向けたガヴァナンスは「お客様アーバニズム」とでもいうべきものをもたらした。 その見方にようやく切り返しがみられる。この都市に住む人たち、ここにいる人たちの方を向いて、住民が必要とすることを支援しようとする取り組みが一部の識者や市長から出てきている。ほかのところから人を集めるよりもここにいる人たちを新たな職種に向けてトレーニングし直したり、インフラに投資したり、地元の既存ビジネス支援を優先すべきだとするかつて異端扱いされた主張が主流のなかに見られるようになってきた。ニューヨーク市長ゾーラン・マムダニのアプローチにその傾向を見てとるのは難しくないはずである。北米の諸都市が、南米ボゴタの前市長クラウディア・ロペスが残したレガシーや後任のエンリケ・ペニャロサから学ぼうとしているのも興味深いところだ。 2000年代にニューヨークはラグジュアリー製品だと当時の市長が発言したことで物議を醸したことがある。誰もが憧れる手の届かない場所ということかもしれないが、昨今ではラグジュアリー・ブランドの不振が伝えられている。経済的な状況のためだろうか。アフォーダビリティはたしかに大きな問題ではあるけれど、大都市を離れている人はそこに住む余裕がないためなのだと片づけると、大きなものを見失ってしまうことになるように思う。 (おわり)
yoshiさん