連載 モードの思想
第3回後編:かわいいだけでいいのか
レポート
2026.11.02
ファッション|FASHION

連載 モードの思想
第3回後編:かわいいだけでいいのか

この連載の目論見は、モードの目的地を明らかにすることだ。

ファッションはどこかに向かおうとしている、と感じる。けれど、どこかに向かおうとしているか、そのどこかは誰も分かっていない。もちろんファッションデザイナーたちやファッションを楽しむ人たちが「ここに行くぞ」と目的地を決めていくようなものではない。 モードは様々な方向へと飛び出していく。そのモードの運動の総体を捉えるために、様々なモードそのものを分析すること。無数のモードのヴェクトルを足し合わせていくと、いったいどこに向かうことになるのか。まったくの無になってしまうのか、それとも、おおまかにせよ、モードは方向と大きさを持っているのか。

モードはどこに向かうのか。存在しない目的地を探す旅を始めよう。

攻撃されるかわいさ

かわいいは、間柄をデザインする力を持っている。

例えば、かわいい者に対する面と向かっての批判は難しい。かわいいものは批判の対象ではない。いいことのように思える。誰だって面と向かって批判されたくはない。しかし、相手が批判したいのに批判できない対人関係をデザインすることは、その鬱憤が溜まっていったりして、裏でより巨大な憎しみを育てる危険もありうるのだ。人間というものは、すべての悪感情をすぐに忘れるわけではない。それゆえ、むしろ、その都度交渉できたほうが問題が起こらない。だが、かわいい人を私たちはうまく非難することができなくなってしまう。それは、かなりのディスアドバンテージにもなり得ると思うのだ。それゆえ、かわいいだけではダメそうだ。

そして、もうひとつ、かわいいの欠点がある。それは、「被攻撃性」だ。かわいいことは、かわいい対象と、その対象をかわいいと思う者との間にある距離が近くなる。距離の近さはいいことだけではない。侵害にもつながるのだ。私たちがかわいいものに出会ったとき、それを愛でたい、庇護したいと思うだけではない。誰しもがもう一つの感情を感じるだろう。それは、あまりのかわいさに、時には「握りつぶしたくなる」。かわいいものを虐待したくなる、破壊したくなる。すなわち「キュートアグレッション」。かわいいものに対して、かわいいからこそ苛つき、それを攻撃したくなる。この侵害と攻撃は、例えば「カッコよさ」や「イカツさ」にはないものだろう。かわいいものは、庇護と同時に傷つけられうる。

かわいさの美学を展開するアメリカの美学・文学理論研究者のシアン・ンガイはこう言う。

その誇張された受動性と脆弱性において、「かわいい対象」は、消費者の抱きしめたいという欲求と同じくらい、支配や制御に対するサディスティックな欲望を刺激することを意図されていることが多い。(Ngai 2005, 816–817)
 
こうしたかわいいへの攻撃というものをさらにみていくことで、かわいいだけではだめかもしれない理由がみえてくる。

作り手のサディズム

芸術の世界でも、かわいいは何度も表現のモチーフとなってきた。アーティスト村上隆の不気味かわいい「DOB」やアーティストの奈良美智が描く攻撃的なかわいい子どもたち。こうしたかわいい存在は、ただかわいいだけではなく、強い暴力性や、周囲だけではなく自分自身をも破壊するような暴走する力を溜め込んでいる。なぜかわいいだけではないのだろうか。なぜかわいいは自分自身の中に暴力的な力を膨らませるのだろうか。

奈良の作品について、人類学者のマリリン・アイヴィーは、こういう。

彼の代名詞とも言える「わるい(evil)」子供たちの絵画は、「かわいい」の変形である。それらは、大きな頭、丸み、柔らかさ、押しつぶせそうな質感、大きな目といった多くの定型を再現しているが、それはまさに、作家の変形技法によって押しつぶされ、圧縮されたバージョンとして現れている。「かわいい」の様式的要件は、脆弱で順応しやすい性質の限界を超えて押し広げられ、かわいい化された美的関係に常に暗黙的に含まれている攻撃的な側面を露わにしている。「かわいい」の様態的要件は、無防備で順応性のある状態の限界を超えて押し広げられ、かわいい化された美的関係に常に暗黙的に含まれている攻撃的な側面を露わにしている。(Ivy 2010, 15、「」は原文斜体)
どういうことか。まず、これまで論じたように、かわいいものは、周囲から攻撃され、変形されえてしまう。周囲からのアグレッションによってつぶされ、めちゃくちゃにされうる。そうすると、かわいいものを描く・創作するということはどういうことになるのか。それは、かわいいキャラクターが、作家自身によってはじめから歪められている、ということを意味するのだ。かわいいものを作り出すとき、人は、始めから、それらのかわいいキャラクターをかわいい存在として作り、アグレッションしている。かわいいものを作るということは、そのまま、攻撃されうるものをつくる、ということなのだ。

かわいいものを作ることそのものには、ある意味で「サディスティック」な欲望が隠されてさえいる。アメリカの文化批評家のダニエル・ハリスは非常に優れた分析を行っている。

要するに、「かわいさ」とは、私たちが子どもたちの中に発見するものではなく、私たちが子どもたちに施すものだ。それは不幸や無力感、そしてゆがみを美学化するため、その創り手によるサディズムの行為をほぼ常に伴う。創り手は、自分が偶像化しようとしている対象を、無意識のうちに傷つけ、足かせをかけ、恥をかかせようとするのだ。(Harris 2001, 5)
 
試みに、あなたにかわいいものを描こうとして欲しい。頭の中で想像するだけでよい。そのとき、そのかわいい存在に対して、まったくのサディスティックな欲求を働かせていないと自信を持って言えるだろうか。言えるとしたら私はその通り、私やハリスの感覚が少なくともあなたに対しては適用できないと認めたい。だが、少なくない人は、かわいいものを生み出そうとするとき、どこか、サディスティックな、「かわいそうはかわいい」とネットミーム的に言うような、かわいいものへの隠れた欲求に気づかざるを得ないのではないか。

ちいさくてかわいいものが虐待される。「ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ」(2020年連載開始)は、いまや小さな子どもたちにまで愛されるキャラクターとなった。小さくてかわいい「ちいかわ」やその友達のハチワレたちが、和気あいあいと暮らしながら、急に残酷だったりシビアな現実に巻き込まれ、ひどい目にあったりする(最初、私がSNSでみていたときは、一部のインターネット好事家による不思議なコンテンツだと思っていたのだが、子どもたちが好んでみているようで、世界が変わったようで驚いている)。

そう考えると、ますますかわいいだけでは危険な理由がみえてくる。かわいい存在が、創られると同時に、まさにその創るという行為によって、その作り手によってサディスティックな力を被るとしたらどうか。

問題は、かわいく創られる存在は、フィクションの世界だけではないということだ。

アイドルたちもまた、かわいいを演出され、プロデューサーたちによって、そして、何よりも、私たちファンによって「かわいくあるように」と願われて創られるかわいい存在だ。かわいいアイドルたちは、その作り手たちによってその可愛さをわずかなりともサディスティックな仕方で、キュートアグレッションとともに生み出され、そしてかわいくあり続ける。私は、決して、彼女たちが無力な存在であるなどと言いたいわけではない。むしろ、かわいいは力である、と繰り返し主張してきたように、かわいい存在は、かわいいだけではなく強い支配力を隠し持っている。だが同時に、かわいいものに対する私たちのサディスティックなキュートアグレッションの圧力にいまにも破裂しそうにもなっているのだ。

近年「かわいい」がファッションの文脈に取り込まれた最たる事例がチャームづかい。なかでも『ちいかわ』は人気が高い。

かわいい労働

それゆえ、かわいいは諸刃の剣だ。

かわいいを手に入れることで、私たちはたんに「カッコいい」とか「イカつい」といった美的性質の一種類を手に入れるだけではない。特有の仕方で対人関係をコントロールする美的力も得る。自分を庇護させるように要求できる。

だが、そのかわいい美的力は、対人関係の問題のすべてを解決してくれるわけではない。相手からのヘイトをうまく管理できなくなるかもしれないし、相手からの侵害を誘発してしまうかもしれない。そして、その相手からのキュートアグレッションは、思ったよりも人間を蝕むのではないか。

いま、アイドルを始めとして、少なくない女性たちは「かわいい労働」を強いられているのではないか。 社会学者のガブリエラ・ルカーチは、1998年から2004年の「ネットアイドル」現象——自分の写真や日記をウェブサイトに掲載し、ファンと交流しながら人気を獲得しようとした実践——を「かわいさ」から分析する(Lukács 2020)。ルカーチは、彼女らネットアイドルたちが、様々な仕方で自分なりのかわいさを表現することで、新しい自己肯定のかたちを探求していたと評価しつつも、同時に、ファンへの返信、日記更新、撮影とアップロード、自己演出、ランキング投票の呼びかけ、ファンに対する感情的ケアといった膨大な作業に飲み込まれっていったことを指摘する。

彼女たちは、新しい仕方での感情労働、すなわち「かわいい労働」へと引きずり込まれていった。ルカーチの分析は今なお古びてはいない。過去のネットアイドルたちが行っていた労働は、様々なSNSで活動するアイドルやインフルエンサーへと受け継がれていく。現代の少なくない人々もまた「かわいい労働」に参加することで承認や対価を得ることになる。

もちろん、誰もがインフルエンサーたちのように、かわいいを直接の商品として販売して日々の生活費を稼いでいるわけではない。だが、少なくとも、冒頭で述べたように、かわいいが自分たちのエンパワメントになりうる、と歌う歌がこれほどまでに流行している現在、かわいい労働をSNS以外の場面でもしているのではないだろうか。家庭の中での労働が、見えない仕事「シャドウ・ワーク」として概念化できるように、日々の生活の中で、かわいいによって様々なハラスメントやジェンダー不平等と渡り合おうとすることもまた、見えないかわいい仕事、すなわち「シャドウ・かわいい・ワーク」なのではないか。

ここで言いたいのは、かわいい労働というものを、お金を稼ぐためだけではなく、日常的な対人関係を安全に、円滑にいくように、うまく切り抜けるためのジェンダー化された技法として捉え直したいのだ。例えば外見・表情・リアクションに気を配ること。「感じがいい」「女の子らしい」「愛嬌がある」姿を作り上げること。「怖い」「不機嫌そう」と言われないようにしなければならない圧力を調整すること。あるいは、しつこいメッセージや嬉しくない誘いに対して、相手(主に男性)の面子を潰さないように「また今度」「ちょっと難しくて」「ありがとうございます、でも……」と攻撃的ではない仕方で拒絶をしなければならないこと。

現在の少なくない女性たちは、日々シャドウ・かわいい・ワークを強いられているのではないだろうか。自分のかわいいに時間やお金や精神を使っている。かわいい格好をしよう、かわいい振る舞い・仕草をしよう、とポジティブにエンパワメントされるだけではなく、そうしなければ生きて行けない、という切迫感を感じもするのだ(もちろん、かわいいだけではなく、カッコよさや強さでもってこの世界を渡り歩いていこうというコンセプトもありうる。けれど、そうしたテーマでさえもかわいいからは逃れられていないようには思える。「カッコかわいい」のであり、「かわいくて強い」ものが称賛されているようにも思えている。この点に関してはまた別の議論が必要そうだ)。

もちろん、こうしたシャドウ・かわいい・ワークからかわいいを取り戻すために、かわいいエンパワメントを目指す実践が、とりわけロリータのモードを代表に日々繰り広げられているようにも思う。

実際、ロリータ・ファッションの実践者たちは、かわいいを他人から求められるものではなく、自分たち自身で楽しむものへと作り替え、ある意味で独占しようとしている。社会学者のジャイーシュウ・ジャオとイーメイ・ジューは、中国のロリータ・ファッションの実践者53名へのインタビューを通じて、彼女たちがロリータという装いを通じて独自のコミュニティを形成していることを明らかにする(Zhao and Zhu 2025)。ロリータの実践者たちは、自分たち以外の人々を「地球人(Di Qiu Ren)」と呼ぶ。

多くの部外者は、私たちの服装が誇張されすぎていて、まるで宇宙人のようだとよく言います。だから、私たちは「そう、私たちはロリータ星(Lolita Planet)から来た『ロ・エイリアン(Lo aliens)』よ」と答えるだけ。(回答者9、女性、24歳、ジュエリーデザイナー)


かわいい服を着ることによって、一般社会から距離をとり、自分たちを切断し、いわば別の星に住まおうとする。SNSで自分たちの装いを共有し、互いのかわいさを称賛しあう。

けれども、実際は、かわいくならなければならない、そうすることが、生きていく際に実際的な利益をもたらしてくれる、というかわいい・ワーク思想は広く行き渡っている。例えば、一例として、メイクについてもかわいいが作られ続けている。涙袋メイクを始めとして、カラコンも含めて、いずれも、大人っぽさやクールさの方向というよりも、かわいい、幼い動物的な愛らしさを演出し、生み出すような技法が探求され実践されているように思える。うるうるとした涙のモチーフ、黒目を強調し、白目の部分を減らす。あるいは、「中顔面短縮」メイクやメガネを使った顔の見せ方など、いずれにしても、愛くるしさをデザインしようというトレンドがある。こうしたトレンドがただちにとりわけ女性に負担をかけるものだとは考えづらい。

だが、強調したいのは、かわいいモードのファッション実践が、すべての場合において、私たちをエンパワメントするものではないということだ。どのような間柄をその装いをまなざす者と作り上げるのかが重要である。かわいいを押し付けることで、抵抗するという方向になるのか、それとも、かわいいを用いて、庇護を求め、同時に攻撃の危険も発生させるのか。かわいいが私たちを救い出してくれるかどうかは、そのかわいいの種類や状況によって大いに異なってくる。

2024〜2026年にかけ、現代的な解釈によるロリータや森ガールテイストのスタイルがストリートには散見される(左:2025年、右:2024年撮影)

かわいいを超えて

かわいいを求めることは、「単純に、かわいいからかわいくなりたいのだ」と反論があるかもしれない。だが、美的性質というのは、完全に対人関係から切り離された無色透明ではありえない。つねに、対人関係に何らかの影響を与えざるを得ない。それゆえ、かわいくなることは、単にかわいくなりたいだけだと感じていたとしても、それ以外のいろいろな対人関係の要素を引き連れて発生させてしまう。それを避けることはできないのだ。シャドウ・かわいい・ワークにいつの間にか巻き込まれ、時間やお金や精神を費やすことになってしまっているかもしれない。

かわいいだけじゃだめなのか。だめかもしれない。様々な世界の不平等と向き合うためには、かわいいだけではない、様々な力と知恵を駆使していかなければならない。しかし、同時にかわいいは、まだまだ可能性を秘めているようにも予感する。かわいいの力が、さらに探求されるべき未開の地として広がっている。もしかすると、すべての不平等が撤廃された時、そのときにはじめて、私たちは、純粋にかわいいを享受できるのかもしれない。だが、そのときまでは、かわいいだけではなく、かわいい以外の力も必要だ。そのために、私たちはさらに別のモードも探求していこう。

参考文献

有田亘.2013.「「視線革命」 としてのロリータ・ファッションへむけて」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』26.3 (2013): 1-20.

ACROSS. 2026a. 「渋谷 10017 22歳 女性 / 大学4年生(ファッションデザイン)」https://www.web-across.com/observe/mino5u0000008gqf.html ACROSS. 2026b.

「原宿 10036 21歳 女性 / 大学4年生 服飾」https://www.web-across.com/observe/trkkfk0000009rta.html

Harris, Daniel. 2001. Cute, Quaint, Hungry and Romantic: The Aesthetics of Consumerism. Da Capo.

Ivy, Marilyn. 2010. The art of cute little things: Nara Yoshitomo’s parapolitics. Mechademia 5: 3–29.

Lukács, Gabriella. 2020. "The Labor of Cute: Net idols, Cute Culture, and the Digital Economy in Contemporary Japan." In Invisibility by design: women and labor in Japan's digital economy. Duke University Press. 57–80.

Merish, Lori. 1996. Cuteness and commodity aesthetics: Tom Thumb and Shirley Temple. In Freakery: Cultural Spectacles of the Extraordinary Body NEEDS SPACE. Thomson RG. ed. New York University Press. 185–203.

Ngai Sianne . 2005. The cuteness of the avant-garde. Critical Inquiry 31: 811–847.

Plourde, Lorraine. 2018. "Babymetal and the Ambivalence of Cuteness." International Journal of Cultural Studies 21(3): 293-307.

Zhao, Jiayixiu and Yimei Zhu. 2025. “Need for Belonging: Exploring Subcultural Identity in the Chinese Lolita Online Community.” European Journal of Cultural Studies, 28(4): 1000–1020.


【文:難波優輝】

Profiel:1994年生まれ。美学者、会社員。立命館大学衣笠総合研究機構客員研究員、慶應義塾大学 サイエンスフィクション研究開発・実装センター 訪問研究員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。近著に『批判的日常美学について』(晶文社、2026年)、『性的であるとはどのようなことか』(光文社、2025年)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)、『物語化批判の哲学』(講談社、2025年)。
 


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