手仕事はエシカルではない
オスロ都市大学の社会人類学者、テレザ・オストボー・クルドヴァは、インドのラグジュアリーファッション産業を人類学的に分析するなかで、村の刺繍職人からデザイナーのオフィス、ファッションショーまでを横断的に調査した。その結果みえてきたのは、現代インドのハイファッション市場がインド全国の職人たちの手仕事に依存しながらも、厳しい階層のヒエラルキーの中で職人の創造性は「幽霊としての他者」として見えないものとされ、搾取されている事態だ(Kuldova 2016)。伝統的なモチーフを利用するデザイナーが「創造の天才」と称賛される陰で無名の職人(多くは女性や低カーストの人々)が低賃金で働かされている。そうした階層的搾取がインドの伝統美の商品化によって正当化されているという実情があるわけだ。
また、女性労働者の研究を行うアレッサンドラ・コスタグリオラは、現代の「意識高い系」ファッションブランドがInstagram広告でグローバルサウス出身の女性手工芸労働者をいかに描いているかを分析した(Costagliola 2023)。約300点の投稿画像を調べ、フェアトレードを掲げる西洋のブランドが貧しい地域の女性たちを「発展途上の女性」のステレオタイプに沿って現し、その労働イメージ自体を商品化している。女性労働者のエンパワメントを謳いながら、そのビジュアルイメージは宣伝のための商品に変えられている。
ここから見えてくるのは、ファッション業界において、手仕事を称賛することは、当の手仕事に取り組んでいる人々に対して正当なリスペクトをもたらすとは限らないということだ。 非西洋のファッション産業は、しかし、100%オリエンタリズムの被害者というわけでもない。手仕事によって、西洋に対して自分たちの存在をアピールすることもできる。西洋からのオリエンタリズムを利用することで利益を上げるだけではなく、自分たちのアイデンティティを創り出し、内外に知らしめ、ナショナルブランディングを行う。
非西洋のデザイナーがパリで発表すること自体をファッションの精度の前提として、自国の手仕事を西洋的なモードの文脈へと翻訳する事例も散見される。そこではセルフ・オリエンタリズム(自らが自らをエキゾチック化すること)と、これまで声を与えられていなかった非西洋文化を生きる者としての語りが同時に行われている。しかし、パリでの活躍を目指すことは、そうすることが非西洋文化を西洋文化に認めさせることを目的とする限り、西洋=モードという制度的枠組みから完全に外れられるような試みではない。
たとえば、中央アジアのウズベキスタンでは、ソ連崩壊後、イカット織物や伝統的な帽子ドゥッピが国家的遺産として注目を浴びている。政府は天然シルク生産やイカット織りを支援し、ファッションショーや展示会を通じて「古代シルクロードの正統な継承者」というイメージを国内外に発信している(Mentges 2019)。ここで強調されるのは、伝統的技法の復興と、それを用いた現代デザインの融合である。しかし服飾研究者のガブリエル・メンテスが示すように、それはたんなる保存や継承ではない。忘れられていた技法の再発見ではありつつも、西洋的裁断やグローバルなファッション様式と結びつけることで、新たにオリエンタル化(=西洋からみたエキゾチックな東洋イメージを強調すること)されたスタイルがつくられているのだ。すなわち、グローバルな舞台で注目されるために、あえて「東洋的」な意匠を強調することで、結果として、新たに本質主義的な国民像を作り出してしまう可能性があるというのである。言い換えれば、「ほんとうのウズベキスタン国民イメージ」を作り出す。それは、「にせもののウズベキスタン国民」を探し出して非難したりする排外主義的な立場を生み出す原因の一つになるだろう。伝統は、外部からのまなざし(観光客や国際メディア)を意識したしかたで組み直される。
もちろん、同時にそれは、ナショナリズム、ジェンダー抑圧の危険を持っていることに注意を払わなければならない。私たちは、他人をひとまとめにしがちだ。だが、ウズベキスタン人というものが、確固たるものとしては存在しえない。つねに異なる性質を一人ひとりが持っている。生まれ、育ち、病気、ジェンダー、障害、信仰、労働、役割——異なる欲求や生き方がある。 こうした「オリエンタリズム化された非西洋の手仕事」を創り出し、憧れることは、結局、その地に生きる人々に勝手な夢を押し付けるという意味で正しい認識ではない。そうした夢をしたたかに利用して、当地の人々もまた稼ぐことはできる。だから経済的に言えば悪い話ではないこともあるのだろう。けれども、誤った認識はそれ自体、当地の人々への尊敬を欠いたものになる。それは、美徳のある振る舞いではない。カッコいい振る舞いではない。
この問題を考えるヒントとして、文化的盗用という概念がある。なかなか扱いづらい概念ではあるが、一つの有力な解釈がある。それは、ホチャン・キムによる分析だ。キムは、文化的対象が広く流通するときに起きる「デタッチメント」という現象に注目する(Kim 2024)。 デタッチメントとは、文化を育ててきた人々がその文化の貢献者として認められないことだ。素材やモチーフといった文化が人々の注目を浴びて、人気を得ていく。その文化を発展させてきた人々––––しばしば、重要視されてこなかったり、厳しい労働環境の中で抑圧されてきた––––が「デタッチメント」される。つまり、文化を育ててきた人々の文化への関わりが、①見えなくされたり(担い手は「インスピレーションの源」として語られたりする)、②貶められたり(「素朴」「未開」「純粋」といった一見称賛でありながら、西洋よりも劣ったものだとする)、③資本力があったり発信力の大きい存在によって押しのけられる(大資本による同型の商品が流通し、市場から当事者によるプロダクトの居場所がなくなる)ということだ。
ここで大事なのは、当事者の気分を害したかどうかや許可を取ったかどうかだけではない。第三者(観衆・市場・メディア・ファッション好き)たちが誰を文化の貢献者として理解し、記憶し、評価するのかという「承認」が問題なのだ、という点だ。 手仕事を褒めることは善にもなりうる。問題は、その褒め方が、誰を文化の貢献者として承認するかだ。手仕事礼賛が担い手の名前、能力、文化をきちんと伝え、第三者に誰がどう作ったのかを学ばせるなら、それは承認不足のデタッチメントを緩和することにはなる。
手仕事の幻想から離れるために
私の大好きな動画がある。発展途上国で、非常に環境に悪そうだったり、非常に危険な環境で、非常に危険な製品をリペアしたりしている動画だ。
たとえば、ばきばきに壊れた車のホイールを溶接してもう一度蘇らせる巧みな仕事だ。だが、一度壊れたホイールをこういうふうに見た目だけ修繕しても、ふたたび壊れるのだ。そのときに人死が出ないことを祈るばかりである。
あるいは、タイヤつながりで言えば、古いタイヤを巨大な窯で高熱で熱して、ものすごい黒煙をもくもくと噴き上げながらドロドロにしてオイルを抽出する、ものすごく環境に悪いリサイクルが行われていたりする。
これは確かに素晴らしい手仕事の技術なのだが、バンバン環境を汚染していて、えげつない。この動画をみていると、手仕事が手仕事だからといって善なわけでも美なわけでもないことがビシビシ伝わってくる。 極端なことを言えば、核兵器開発だって手仕事である。手仕事それ自体が、善であるわけはない。一流の殺し屋だって手仕事だ。汚れた手仕事。 手仕事という言葉は、ほんとうは善悪を含み込んだいろいろな価値を持っている。手仕事だからと言って、いいことになるわけではない。なのに、「手仕事」とひとこと言うだけで、なぜか私たちがノーとは言いにくい雰囲気が作り出される。 私たちはなぜ「手仕事」と言われると、何も言えなくなるのか。それを考えよう。
手仕事をするためには、人々は時間と労力をかけて習熟しなければならないし、一回一回の仕事に気を払わなければならない。そして手仕事自体に長い歴史があるとされる。
それゆえ、どんな(悪い)結果をもたらそうと、手仕事は批判に対して免疫力がある。いくら批判されても「でも、あなたは私たちがやっていることができないだろう」と反論されてしまえば、私たちはふつう二の句が告げなくなってしまう。手仕事には努力による説得力があるのだ。
たぶん私たちは手仕事に対する強烈なコンプレックスがある。私たちは、ふつうに暮らしている限り、すでに伝統的なもの、継承された技術から切り離されている。自分で服は作れないし、ボタンを付けるのも一苦労だし、料理もそらでは作れないし、大工仕事もできない。だから、手仕事にうろたえ、ひれふす。
だが、この努力による説得力は、正しさとも美しさともなんら関係がない。ただ努力していてすごい、それだけのことである。 手仕事はすごい。とはいえ、それは道徳も美もなに いもかも覆い隠すほどすごくはない。私たちのコンプレックスは放っておいて、手仕事の内容に目を向ければよい。手仕事の結果がよいものかどうか判断すればよい。
手仕事の何に惹かれているのか、自分で明確化するべきなのだ。手仕事を褒めることで、私たちは、説明責任を負わずに済んでしまう。それはずるい。ずるいことはやめて、正々堂々、何に心惹かれているのか、何を大事にしたいのか、そして、どんな不平等に加担してもいるのか、その責任を引き受けて、手仕事を褒めるなら褒めること。けなすならけなすこと。
労働に向き直る
この問いに答えるために、こう問い直そう。
そもそも、なぜ手仕事に私たちは憧れるのだろうか。
手仕事への憧れとは、意味のある労働の憧れに他ならない。私たちは、自分たちの作りたい製品を毎日作れているわけではない。私たちは、仕事として、本当はピンと来ていないものを作らなければならなかったり、売らなければならなかったりする。つまり、自分たちの意志で、「自律的」に働けていない。 だが、手仕事、と聞くと私たちはこう想像する。職人たちが、培った技術を用いて、自分たちのリズムで、自律的に働けている世界を想像する。「手仕事」という言葉は、自律性の夢を私たちにみさせてくれる。そうした手仕事によって作られたものを身につけることは、私たちは日常ではもはや叶えられない、自律的で幸せな労働の産物を身につけることだ。それは、とても素晴らしい経験になるわけだ。
つまり、手仕事による生産物は自律的な労働の夢を担っている。その夢は確かに、捨ててはならない。私たちは、現在の賃労働のあり方とは別の労働のあり方をぜひともデザインすべきだ。
例えば、ファッションにおける労働は、しばしば劣悪な環境だとして批判の的になる。私たちは、どのような仕方で、自律的に働くことができるのだろうか。
だが、オリエンタリズムはもはや虚偽であることが分かってしまっている。私たちには帰るべき伝統というものは、もはやない。私たちは、いまの暮らしを手放すことはできない。そもそも伝統というものは、つねに拵え物であるのだ。
だとすれば、伝統とは結びつかない手仕事の可能性、自律的な労働の可能性をどうやって考えられるか。それが、私たちが次に考えるべき問いとなる。
レズリー・W・ラビーンは、セネガルの首都ダカールで活動する若いTシャツ・アーティストたちが、ファッション産業において自律的な労働のあり方を模索する姿を詳細に描いている(Rabine 2019)。彼らのTシャツは、「社会の魂」を表すものとして語られる。デザイナーのプオーロ(Poulo)は、自らのコレクション「Nourou」を「We Are Workerz(私たちは労働者だ)」と名づけ、Tシャツを通して、経済的に追い詰められながらも立ち上がり続ける若者たちの姿を示そうとする。ここで重要なのは、彼がアーティストを純粋な創造者としてではなく、はっきりと労働者として語っている点である。芸術と仕事は切り離されない。Tシャツは魂の表現であると同時に、生き延びるための労働の産物でもある。
Nourouは、デジタルデザインを熱転写フィルムに切り出し、一つ一つ手で剥がし、複数回プレス機で圧着する。複雑な色使いのTシャツ一枚を作るのに三十分以上かかることもある。機械印刷では出せない質感が生まれる。だがこの工程は、ロマンチックな伝統ではない。セネガルには大量生産のデジタルTシャツ印刷機がほとんど存在せず、量産の選択肢が限られているという技術的・経済的条件に由来する。 しかも、彼らは低単価の受注制作に追われ、不払いのリスクもある。手間がかかるのはそうすることに価値があるからではなく、そうせざるをえないからだ。彼らは、自分たちの労働を美化してはいない。誇りを持ちながらも、退屈な反復作業や不安定な取引関係を隠すことはない。 まさに手仕事に従事し、自律的な労働を目指す彼らもまた、労働の苦しみからはまだ逃れられていない。
「手仕事」とともに、それに対して
現在の「手仕事」礼賛は、もちろん、問題だらけだ。とはいえ、手仕事に憧れる私たちの気持ちまで馬鹿にするわけにはいかない。その切実な、自律的な労働への憧れ、欲望を、私たちは忘れるわけにはいかない。
ファッションとは、そのアイテムに宿された美的価値をてことして、社会に対して、特定の問題を強調したり、それを考えることがクールなことだとする力がある。つまり、ファッションは何らかのテーマに関わること——考えること、論じること、表明すること、反対すること——をそのアイテムを身につけるという実践を媒介にして、美的価値を付与することができる。
ウィリアム・モリスは、工業を批判する理想主義者ではなかった。金融業の家に生まれ、市場の現実をよく分かっていたモリスは、工房兼会社を組織し、品質・工程・顧客関係を統括する経営者として活動した。初期に受注していた教会装飾から家庭のインテリアへと領域を広げ、壁紙や布地などの日用品に手仕事の価値を見出しつつ、ブランド化し、なぜ手仕事に価値があるのかを翻訳し、書籍や講演会を通じて人々の趣味を教育するインフルエンサーでもあったのだ。富裕層向けの高級な作品と、一般向けの手の届く商品をどちらも販売することで、手仕事を文化に埋め込んだ(Harvey et al. 2020)。私たちはモリスのしたたかさに学ぶことができる。手仕事の理想に惹かれながらいかに持続可能な営みにできるか。持続可能なしたたかさ。
私たちは、ファッションをつくることを通じて、労働の別のあり方を、ロマンチックにではなく、オリエンタリズムではなく、しかし何も変わらないだろうというリアリズムにも屈することなく、想像することが、それでもできるはずだ。
参考文献
Costagliola, Alessandra. 2023. ‘Allow her to flourish and grow’: commodifying gendered handicraft labour in conscious capitalist brand imagery on Instagram. Third World Quarterly 44(6): 1288-1305.
Harvey, Charles, Jon Press, and Mairi Maclean. 2020. Business in the creative life of William Morris. The Routledge Companion to William Morris. Routledge,. 40-57.
Kim, Hochan. 2024. Cultural Appropriation and Social Recognition. Philosophy & Public Affairs 52(3).
Kristeller, Paul Oskar. 1951. The modern system of the arts: A study in the history of aesthetics part I. Journal of the History of Ideas 12(4): 496-527.
Kuldova, Tereza. 2016. Luxury Indian fashion: A social critique. Bloomsbury Publishing.
Mentges, Gabriele. 2019. Reviewing orientalism and re-orienting fashion beyond Europe, in Gaugele, E. and Titton, M. eds., Fashion and Postcolonial Critique. 128-141. Sternberg.
Sennett, Richard. 2009. The Craftsman. Yale University Press.
Roy, Tirthankar. 2020. The crafts and capitalism: handloom weaving industry in colonial India. Routledge India.










