2004.12.04
その他|OTHERS

梶谷好孝/KAJITANI YOSHIKO インタビュー

YOSHiKO☆CREATiON-Paris

引っ込み思案で絵が大好きだった少女

小さいころは、病弱だったこともあり、静かで恥ずかしがりやで、いつも母の後ろに隠れてしまうような子どもでした。建築関係の仕事をする父と専業主婦の母との間に生まれたひとりっ子で、従兄弟も全員年上。母からは絵を習ってよく描いていました。

学校の勉強は、国語と英語、美術、音楽は成績が良かったんですがそれ以外はぜんぜんダメ。完全に文系でしたね。高校生のころぐらいからか、ゲンズブールやジェーン・バーキン、フランソワーズ・アルディ、レオス・カラックスなど、フランスの音楽や映画のダークな部分に惹かれるようになり、よく観たり聴いたりするようになりました。たぶん、自分自身がシンプルだったので複雑なものが欲しかったんだと思います。

フランス語に惹かれたのも最初は音だけかと思ったんですが、あの独特な言い回し、はっきりは言わないけれど、全部否定形で表現するスタイルに魅力を感じてたようです(笑)。

日本の映画で好きなのは戦前のものです。寺山修司とか岡本太郎も大好きで、そういった本をたくさん読んでいるうちに、頭の中で「フランスってどんなところなんだろう?!」っていう気持ちがどんどん膨らみ、「フランスに行ってみたいな」が「フランスに行きたい」、「フランスに住みたい」という強い気持ちに変わっていきました。

過去を匂わせない街、パリ

友だちはみんなロンドンを勧めましたね。というのも、ファッション学生になった私は金髪で眉毛なしのパンク少女100%(笑)。当時の雑誌でいうと『CUTiE』です。子どもの頃の反動なんでしょうか。なぜか黒、白、グレーの服しか着せてもらえなかったんです。ヴィヴィアンとかゴルチェといった時代の常に逆の方向に引っ張っていく力があるデザイナーの服が大好きで、毎日そういうファッションを好んで着てました。若者って、自分にない何かを外に求める分、過度な自己表現もするじゃないですか。そんな感じでしたね。

そんなふうにアバンギャルドなファッションが好きだったので、あえてベーシックなオートクチュールが学びたくなった。それで、エスモードのパリ校留学コースに入学し、2年生からパリで学ぶ道を選んだんです。

パリはもう、夢ばっかりでした。思っていたイメージとはぜんぜん違いましたね。最初に住んだのはオペラ座の近くのアパルトマン。螺旋階段に惹かれて借りたんですが、周辺はアトリエの多い街のど真ん中。自分が想像していたのは素敵な田舎だったということに気がつきました(笑)。夢にまで見たゲーンズブールが利用していたっていうホテルの界隈のサンミッシェルも汚いし…。まあ、次の日の昼に見たら雰囲気があっていいなって思い直しましたが(苦笑)。パリは空気が乾いているので、日本みたいに街の匂いがない。だから匂いで記憶が戻ったりもしないんですよね。すべてが新鮮でした。

ファッションスタイルを変えるのはアクセサリーなんじゃない?

もともとは服飾デザイナーになりたいと思っていたんですが、私はパタンナーとか職人的なものではなく、ディレクション的なアプローチに興味がありました。だって、時代がある中でのファッションじゃないですか。服飾のパターンには限界があるなって思いましたし、また、オートクチュールとプレタポルテの開きがあまりに大き過ぎたというのもありましたね。

時代はちょうどジェレミー・スコットがデビューした頃です。同時期のコレクションが話題を呼んだ私の師匠でもあるオートクチュールのアクセサリー・デザイナー、エリック・アレーの作品を見て、「ああ、アクセサリーってこんなに自由で面白いんだ!感性でつくっていいんだ!」と感銘を受け、方向転換。ベルソーを卒業してすぐの出来事でした。

それからはもう、つくりたいテーマが次々に沸いてきました。主に本からなんですが、たとえば寺山修司の「一本の木にも流れている血がある。そこでは血は立ったまま眠っている」というのをテーマにしたネックレスは、流木を使って首のまわりにまとわりつくようにデザインしたものです。

コンセプトは「ポップクチュール」。オートクチュールとプレタポルテの中間で、そこに80s風なちょっとバカげたテイストをミックスするのが面白いと思ったんです。洋服に付けたら洋服が変わってしまうようなもの。パターンの中に限界がある洋服とは違い、アクセサリーはほんとうに自由。ファッションスタイルを変えるのはアクセサリーなんじゃない?!って本気で思いましたね。

モノではなく「人」で判断する、パリの人

デビューのきっかけはパリのセレクトショップ「コレット」で取扱ってもらえるようになったことからです。卒業後はアルバイト感覚で作品をつくってはショップに営業して回っていたんですが、ちょうど親と交わした2年の約束の渡仏期限も迫っていましたし、寺山修司の『家出のすすめ』じゃないですが、1回独立して自由に生きてみるのもいいかな、と思い、少し本気で作品の卸先を考えるようになったところでした。

友人の紹介で「コレット」のサラさんのところに持っていったときに運命の出会いを感じました。

ひと通り私の作品を見終わったサラさんは、「あなたの作品はわかったわ。でも、今あなたが身に付けているペンダントがとても素敵だから、そんな感じのものをつくってみてちょうだい」って私に言ったんです。びっくりしました。

そのとき私がしていたのはアフリカの子どもに歯が生えますようにっていうお守りのようなものだったんですが、日本だったらそんな学校卒業したての若造なんて門前払いされるのがオチですよね。または、出来上ったモノだけを見て、いい悪いの判断をするじゃないですか。サラさんに限らず、パリの人は、「その人そのもの」を判断する。パリは実はものすごく見た目社会です。それはメイクで顔をキレイにしているとか、いいもの、高いものを身に付けているという意味ではなく、態度っていうんでしょうか。そこにクリエーションについての対話ができる対等な関係が生まれるんです。

初めての体験でした。「ああ、完成されたものじゃなくても、こうやってひとりの人としてコミュニケーションをしてくれるんだ!」ととても嬉しく思いました。若い頃には発言権がないことにイライラしてたんです。その時、この人のために頑張ろうって決心したのです。

すべては「1割のエクスタシー」のため!

コレットのサラさんだけでなく、バイヤーの方にはほんとうにいろんなことを教えていただきました。なかでも当時「WR」のディレクターをしていた福田春美さんは日本の母(失礼!)のような存在です(笑)。3シーズンめの時でした。展示会に2回足を運んでくださり、さらに終わった後にアトリエまで来てくれたんです。当時私は子どもで相当生意気だったので、足とか組んでタバコとかプカーッて吸いながら作品を見せてましたね(苦笑)。

そうしたら、福田さんが「ヨシコちゃんは運命の出会いをしたわ。私がヨシコちゃんのことを必ずビッグにしてみせるから!」って言ったんです。びっくりしましたね。たいてい口ばっかりじゃないですか。でも、福田さんはそのとき額にうっすらと汗をかいていたんです。ああ、この人本気なんだ。この人のために頑張ろう!って心に誓ったのを今でもはっきりと覚えています。

それからは急にいろんな人が入って今までとは違うステージに上がったような気がしました。人間ってなにかの拍子にステージに上がることってあるじゃないですか。実力がなかったらそれで終わり。でもこうやって何シーズンも続けることができて、それまでノリでやってきたところもあったのでとても自信につながりました。

クリエーション以外にも雑用がたくさんあるんですが、ある日、そんなこともたった1割のエクスタシーが得られることで満足している自分に気づきました。

今という時代に対してのエッセンスを表現したい

パリの街では、日本人はファッションについてはかなりすごい、イケてるね、っていわれる土壌ができていたのはラッキーだったと思います。先輩デザイナーの方々の恩恵を確実に受けている。そのイメージは次の世代の子たちにもバトンタッチしたいですね。続いて留学したりしてくれたらいいなって思っています。

日本のメゾンはどこか個人主義的な意識があって、それを誰かに「あげる」というスタンスの印象を受けますが、フランスでは違います。ファッションは「みんなでつくるもの」という意識が強いんだと思いますね。いいものをつくるためだったらどんどん新しい才能を入れ込んでいく。才能に年齢は関係ありませんからね。

なんといっても日本は109とシャネルが同じ感覚で消費される国です。ガリアーノやゴルチェも日本に行ったら必ず渋谷の109に行くそうですよ。みんながミニスカートを履いていて、ツメをピカピカにしていてまるでマンガの世界のようだって。ディオールなんかはそのコミカルさが面白いっていうことで、自分のコレクションにテイストとして入れ込んだんですよね。

そういう意味では、「ファッション」の定義そのものが違うのかもしれません。東京のファッションはいい意味でも悪い意味でもパリコレのパクりです。でも、同時に、すべてを「ファッション」にしてしまうパワーがある街なんだと思います。

私が考える「ファッション」とは何をするのにもコラボレーションだと思っているんです。これからは、コンセプチュアルな自分の作品づくりだけでなく、もっとディレクター的な携わり方のものづくりもやっていきたいですね。デザインのベースっていうのはみんなだいたい同じで、それにプラスするかマイナスするかでしかない。何をどんなふうにプラスするのか、というのが個性です。自分のなかにあるものだけでなく、まったく違う発想をぶつけ合ったところで生まれるものが面白かったりするじゃないですか。そういう意味でも、国籍や年齢、性別をとわず、いろんな分野のクリエーターの人たちといっしょに、今という時代に対してのエッセンスを表現していきたいと思っています。

「小さな革命」

先日、文化服装学院の講演会に呼ばれたんです。仲良しのスタイリストの長瀬君との対談というスタイルだったんですが、今の学生の子たちはみんな真面目で素直なのにびっくりしましたね。私が学生の時なんかはガムとか嚼みながら「ふーん」って感じで、聴いてるんだか聴いてないんだかわかんない生意気な態度で聴講してましたが、今の子たちはみんなメモを取りながら「ふんふん」って聴いている。自分の若気の至りを反省しました。

でも、なかには「でも、スポンサーがいるんですよね」とか言ってくる子もいた。私は、「通常はスポンサーは金も出すけど口も出すものなんだよ」って言いました。それから、「みんなはまだ実感としては分からないかもしれないけど、ビジネスはとても重要なこと。お金を稼ぐためのビジネスは価値がないけど、自分がやりたいことやクリエーション、スタッフを守るためのビジネスだったら私は喜んでするべきだと思う」って言いました。どこまで彼・彼女らに伝わったかは分かりませんが、それが私の本心です。捨て身でやっていて苦しくなってみて初めて分かることなのかもしれませんね。

私も昔は諦めたくない、妥協したくないって頑に思っていた時期がありましたが、今振り返ると浅はかな考えだったと思いますね。出来ないことをただ考えているのはただの夢。まずは出来ることからやってみましょ。そう発想を転換させることが大切なんです。諦めたことで小さな発見があったりすることも多々ある。

だから、学生やアシスタントたちに言ったんです。
「壁にぶつかった時はすぐ曲がってみてはどうですか? できるだけ潔く。そういう小さな革命を自分のなかにおこしてみてください」って。
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