2003.12.13
その他|OTHERS

小林崇/KOBAYASHI TAKASHI インタビュー

JTN代表/「カフェ・オ・ゴーゴー」オーナー
■CAFE AU GOGO/BAR ESCAPE
Phone:03-5410-1525
東京都渋谷区神宮前3-20-1-202
■JAPAN TREEHOUSE NETWORK
ciesta@agate.plala.or.jp

どこにいっても馴染めないコ

ものごころがついた頃から、人間はオモテとウラがあるものなんだ、って知ってる子どもでした。いつもナナメに構えていて、どこかいじけている。イヤなガキだったと思いますね。

学校にも家庭にもどこにも馴染めない。オヤジもおふくろも教師だったので、世間からは「先生」って呼ばれるじゃないですか。祖父も医者だったからやっぱり「先生」。でも、その実態は家で充分見てるわけですよ。本音と建て前というか。あまり夫婦仲も良くなかったですしね。だからというわけでもないんですが、どこか人間に対して不信感のようなものを抱いたまま大きくなってしまったような気がします。

時代は『すばらしき世界旅行』とか『野生の王国』とかいったTV番組が大人気だったころ。海の向こうはどうなっているんだろう?! その目に見えない「先」に行きたい!ってずっと思っていました。

大学入試を機に上京。ちょうど『ポパイ』とか『ホットドッグプレス』といったシティ派な雑誌がばんばん発行され、アメリカからたくさんのモノがどーっと洪水のように日本に入ってきた時代です。『なんとなくクリスタル』が発行された1980年。ブランドブーム全盛で、見るものすべてが新しく魅力的に思えて、シティボーイ気取りの大学生をしていました。女の子にモテるためだけに流行りの音楽や映画の知識を仕入れたりトレンドスポットに出かけたり。雑誌を必至に読んではあたかも知っているフリをしてました。今思うとなんだか辛かったですね。
シルヴァスタインやミハエル・エンデ、ハンス・フィッシャーといった作家は心の支え。

どうも日本がうまくない。

生まれ育ったのが伊豆ですから、16〜7歳ごろからふつうにサーフィンはやっていました。大学時代に来たサーファーブームは、「よし!これは本場仕込みのオレが勝ち!」とばかりに毎日のようにサーフィンをやり、とにかくフラフラと遊んでばっかりいましたね。

そうはいっても、大学も4年くらいになると虚しくなってきて。バイト先のTV局に卒業後もそのままズルズルとい続けてたんですが、あるときふと思ったんです。なんだか違うなあ、と。何がしっくりとこないんだろう。そう自問自答したらひとつの答えが出た。どうも日本がうまくない。

そう気づいてからは、放浪の旅です。アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、インド、オーストラリア…。南米と××以外の大陸はすべて行きましたね。お金が尽きると帰国して、バイトをしてはまた海外に行く。そんなことを繰り返していました。

とにかく20代は世の中が面白くなかった。同級生とかが就職していい生活をしていたりするわけじゃないですか。自分はそうなるのがイヤだったから今の人生を選択したのにも関わらず、憧れていたり妬ましく思う自分もいる。それで『あおくん、きいろくん』とか『ぼくを探して』とか、そんな絵本を読んだりしてましたね。

バイトといってもいつも短期なので、職種は必然的にウエイター系になる。配膳専門の派遣会社に登録し、リゾート地とかで住込みの仕事ばかりやってました。期間限定でもちろん飯つき。一石二鳥というわけです。

バイトも長いことやってるとベテランになるし、なぜか若者たちが寄って来る。それをみて、派遣会社の社長がバイトを管理する方をやらないか、と誘われたんです。そこで、よせばいいのにその会社に就職しちゃったんですね。案の定、管理するのは向かなかったようで、1年半もしないうちにその会社を辞めました。
サインボードはもちろん手づくり。

フリーマーケットで食ってた30代

身体も気持ちもものすごく不安定な時期でした。そんなとき、たまたまアメリカで、買付けに来ている古着屋の若いオーナーと知合ったんです。「オジサン何やってるの?」って聞かれて、とくに何もしていなかったのでそう言うと、「じゃあ、買付け手伝ってくれませんか?」と言われたんです。放浪の旅で鍛えられたのか語学だけは大丈夫でしたから、とくにすることもなかったので引き受けることにしました。

プロの古着屋さんの世界には暗黙のルールがあって、自分たちで開拓した場所は絶対に他人には渡さないし、荒らしてはいけないことになっている。ですから、「自分たちの目利きで買い付ける古着類は絶対に買わないで欲しい。その代わりに違うものならどれだけ買ってもいいから」と言われました。だから、へんな雑貨や小物なんかを買い付けてはフリマで売ってました。それが日本に帰ってきてフリーマーケットに出すとけっこう売れたんです。ちょうどフリマブームになり始めた頃です。

買付の仕事は最初は西海岸がメインでしたが、その後東海岸に移動し、現地に半年くらい滞在しながら、商品を日本に発送するようになっていました。目利きはできるようになったんですが、売る側も日本のマーケットの相場に詳しくなっている。日本の雑誌の影響です。ちょうどスニーカーがブームになっていた頃で、日本人の買付け人口も急増。もう誰が買い付けても一緒という状況になってしまった。そうなってくると、オレはどうも違うんだわ、と耐えられなくなり独立。ボストンに移り、自分のペースで雑貨を買ってはフリマで売る、という生活をするようになったんです。
原宿の裏にある築40年のアパートを
ツリーハウスに改装。
人間が生きていく基本はこれ、「ピース」。

フリマの次はカフェブーム

そうこうしているうちに、ものって溜まってくるじゃないですか。どうしようかなあ、と原宿の裏路地を歩いていて見つけたのが今の「カフェ・オー・ゴーゴー」の場所なんです。まだ裏原宿なんていう単語がない時代。かれこれ2年くらい前からずーっと空いているのは知っていたんですが、いくら築40年の木造アパートの2階とはいえ原宿ですからね。安いはずがない。案の定高かったんですけどね。大家さんがとってもいい人で、おじいちゃんなんですが、「おまえ、何やりたいんだ?」って言われて、「実はとくに決まっていないんです。でもこんなモノを持っています」と正直に話したら、じゃあ店でもやってはどうか、と励まされまして。今だから言えるんですが、実は保証金は借金で入れてもらったんです。

大家さんにはその後もいろいろとお世話になっていて、僕にとっては精神的な支えです。原宿って、昔からそういう若い考え方やチャレンジングな行動を応援しようという柔軟な土壌がありますよね。僕もそういう土地柄に支えられた1人だと思っています。

今でこそ、なんとか毎月の家賃をきちんと支払えるようになっていますが、最初は大変でした。もちろん他に住居を借りる余裕などないので、夜は床を片付けて寝袋で寝ていました。知合いが来てはお酒を飲むんで、じゃあバーにしよう、ということになりました。名前は『ESCAPE』。オレの人生のまんまなんですけどね。しかも、あんまり営業してない(笑)。

そのうち、隣りの部屋が空いているからということで、じゃあカフェにしよう、と『カフェ・オー・ゴー』をオープンすることになりました。95年くらいでしょうか。お金がなかったので、内装を全部自分たち。世界各地のジャンキーな雑貨が置いてあるカフェです。たまたま、建物の目の前に高さが10メートルほどのヒマラヤ杉の木があったので、その木を取り囲むような部屋にしてしまうのはどうだろう、と大家さんに話したら「それは面白い」と賛同をしてくれたんです。でも、施工業者は最後までつき合ってくれませんでしたね。基礎工事が終了した段階でけんか別れしてしまい、結局自分たちで仕上げました。

ほっと一息つけるようなカフェの完成。たまたま『オリーブ』の人が気に入ってくれて、雑誌でカフェが紹介されたんです。そうしたら、次々と取材が増え、気がつくとカフェオーナーとか言われてコメントを求められるようになっていました。

原宿のショップは、スタイリストと雑誌の編集者との人間関係で成り立っているようなところがあるんです。だから、口コミでいろんな雑誌の関係者がリースをしにやって来る。雑誌に掲載されるから若者たちが買いに来る。商品がなくなるから買付けに行く。求められているのがわかるから、売れるものを買い付けるようになる、と、あっという間に8年ほどが過ぎ、気持ちもヤル気もすっかりなくなっている自分に気づいたんです。あー、また同じ道に来てしまった、と。
毎年オレゴン州で開催されるワールド
・ツリーハウス・アソシエーションの
ミーティング。もちろん、ツリーハウ
スを製作する。
古来より「木は精なるもの」という
考え方を持つ日本人は意外と木のこ
とを知らない。

ツリーハウスとの出会い

そんなある日、ボストンの本屋さんで、『ツリーハウス』という本が今日のオススメのコーナーにあったんです。見ると、大きな木の上に大きな家がでーんと建っている。しかも、ふつうにそこで人が生活しているじゃないですか。木も家も規模は違うんですが、「オレの店といっしょじゃん!」。思わずその場で声を上げてしまいました。

なぜなら、「ツリーハウス」が、まるでハックルベリー・フィンのように、現代社会をナナメに構えて生きている自分のスタンスとぴったり合った。「ツリーハウス」がイコンのようなものになったんです。

そうなると、もう、何がなんでもツリーハウス!と、むさぼるようにツリーハウス関係の本を読みまくりました。そこで、WAT(World Association of Treehouse)という組織があることを知ったんです。本部はシアトル。しかも、その代表のピーター・ネルソン氏が近々日本に来るというではありませんか。主催は小学館の『BE PAL』という雑誌。なんでも、栃木の茂木に約1万坪の敷地を借り切って、野外生活を楽しむためのフリースペースをオープンするらしく、そのオープニングイベントで来日するという。これはチャンスだ!と、さっそく編集部に電話をかけ、原宿でツリーハウスのカフェをやってて、語学もできるので、なんとかそのイベントで使ってやってくれないか、と交渉したんですが、ぜんぜん取り合ってくれなくて。きちんとお金を払って一般参加者として来場して下さいの一点張り。それでもめげずに何度も電話をしていたら、ある日、連絡が来た。突然通訳さんが来れなくなったので来てくれないか、というのです。もちろん、即OK! 本人と会ったら、興味の対象が同じなので、誰よりも親しくなるじゃないですか。意気投合し、原宿の「カフェ・オ・ゴーゴー」も見に来てくれて、「おまえはWATの日本代表だ!」ということになったんです(笑)。
ラフォーレ原宿の前に製作されたツリー
ハウス。ここでの設置は12月25日までだ
が、その後柏のショッピングセンターに
移設するそうだ。
理解あるスポンサーのひとつパタ
ゴニア。スタッフのためのウエア
を提供してもらっている。
ラフォーレ原宿前のツリーハウス
から明治通りを望む。

今の時代、ムダなことこそ大切なんだと思います。

ツリーハウスと出会ってかれこれ7〜8年くらいになりますが、一般の人が注目するようになったのはごくごく最近のこと。相変わらず不器用なので、どこまでが遊びでどこまでが仕事かっていう区別がつけられないんですが、なんとか生活できるようになったのは本当にここ1〜2年のことなんです。

人間ってどうしても1回うまくいくとすぐに基本形をつくろうとするじゃないですか。ルールをつくってそこにいろんなものをはめ込もうとする。人間は慣れる動物でもありますから、そうやってルーティンに慣れていくことで、気がつくと何も考えなくなっていく。本来向いていたはずの方向が変わってしまうんです。

今ツリーハウスも、活動の母体をNPO化した方がいいんじゃないかという話が持ち上がっていて、そういう方向になりつつあるんですが、気をつけないといけないなと思っています。幸い、ずっとスポンサーになってくれているパタゴニアさんは、とてもこちらの意向を理解してくれていて、とてもいい関係ができていますが、一般的にはなかなか大変なことが多い。世の中的には意味のあることばかりが求められているので、一見意味がなさそうな活動をする集団とスポンサーとの関係性は、戦っていかないといけないことがたくさんある。

今って未来が楽しくなさそうじゃないですか。それをいちばん肌で感じているのは子どもたち。だから大半はいつまでたってもフラフラしている。気持ちもエネルギーも発揮する場やモチベーションがない。いろんなものが管理されちゃってますからね。そんな時代に、木の上に家をつくるツリーハウスって意味がないじゃないですか。でも、そんな時代だからこそ、そういうムダな感じがいいかな、と思っています。

なんかね、僕は明治維新の頃が好きなんです。いろんなものや価値観が大きく変化した時代。人物では高杉晋作。「面白きこともなき世におもしろく すみなすものは心なりけり」。

もっといろんなことをぶっちゃけてしまってもいいんじゃないかと思いますね。でないと、何も変わらない。中からしか変われないんですよ。


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