2006.10.27
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林央子/Hayashi Nakako インタビュー

『here and there』発行人/ジャーナリスト

編集者としての出発点

基本的に雑誌好き。ものごころがついた時には、母が定期購読をしていた『暮らしの手帖』と『家庭画報』を見ていました。でも、仕事として具体的に意識するようになったのは、大学に入ってからですね。
 
大学はキャンバスの芝生の緑に憧れたのと、理系の科目で文系の学部が受験できた数少ない大学だったことからICUを選びました。ところが、大学に入ってみたら帰国子女が多くて、日本語と同じぐらい流暢に英語がしゃべれる人ばかり。1年時は英語しかやらないんですが、15人ぐらいの少人数クラス制なので、会話が出来ないと目立っちゃうんですよ、出来なさが。もともと英語は好きだったはずなんですが、そんな環境なので、なんだかものすごい落ちこぼれ感がありましたね。
 
でも、そこで帰国子女の子たちと一緒に過ごした時間が、すごく自分のことを考える時間になったのは事実です。当時は、ICUの卒業後は日本企業なんかには目もくれず、外資系企業でバリバリのキャリアウーマンになる道を選択するのがふつう。アメリカ文化を良しとして日本の文化を否定したり、なかには日本人であることも否定して生きていくっていうストイックな感じの子も少なくなかったように思います。バブル期というのもあってか、みんなけっこうはっきりとした将来の野望を抱いていたような気がしますね。
 
そんな環境の中で自分は浮いていました。雑誌が好きだったので出版社も考えたんですが、マーケティングから発想する雑誌は絶対に作れないなっていうことだけは自覚してたんで、じゃあどこっていうと、いくとこないんですけどね。当時、インディペンデントなビジュアル誌みたいなのがあって、こういうのがいいなと思って編集部に会いに行ってみたら、別に来たければいつでもどうぞ、みたいな感じで。そう言われたのでなんとなく安心しつつ、一応就職活動もしていました。その雑誌はもうなくなっちゃったんですけど。
 
ある時、紹介された人といろいろ話をしていたら『花椿』っていう雑誌が資生堂にあるよって言われたんです。資生堂はメーカーとして働いてみたいと思ってアプローチをしていて、そうこうしていたら編集長に会うことが出来て、自分もここに入りたいと強く思いました。試験に無事通って1988年に入社することになりました。
 

『花椿』時代


編集部は、社員が3人で外部の人を加えて全員で5人。ふたまわり以上違う大先輩ばかりでした。編集長もアートディレクターも自分の親のような世代で、スタイリストもカメラマンもその世代。自分と同じ世代の人と一緒に何かをするっていうのは、入社して5年間はまったくありませんでした。
 
最初に担当したのは、「資生堂からのお知らせ」っていうコーナーです。16字×何行だろう、15行とかでしょうか。いろんな部署に電話してニュースを聞いてその中からセレクトして載せるんですが、そんな小さな記事も20〜30回書き直すのが当たり前。42ページしかない雑誌だったので、細かく指導してもらいました。あとは皆さんのお手伝い。
 
憧れの、というか好きな仕事に就けて、厳しい上司にも恵まれていろんなことをリサーチしたりするんですけど、何の為にそれをやっているのかはまったく見えていない。当時「ニューヨークの奴隷たち(SLAVES OF NEWYORK)」っていう小説が話題になってたんですけど、ニューヨークという都市の魅力と、消費社会を満喫しつつも磨耗していく女たちのコミカルな小説で、それを文字って、同じような仕事をしていたアルバイトの方たちと「SLAVES OF 花椿」って自分たちのことを呼んでました(笑)小説の内容より、そのフレーズがぴったりくる心境でした。
 
まあ、それでもいろんな宿題を上司にもらってリサーチしたりすることがとても刺激的でしたね。その頃は会社も余裕があって、希望すれば海外留学のシステムもあった。同期の男の子はそれでロンドンに行ったりしてましたけど、自分はそんなことをしなくても今ここでやっている仕事の方が刺激的だし、やらせてもらえてるっていう実感がありました。
 
その後、会社絡みのページの他に、美容のページや毎月1人の人をオールジャンルから選んだインタビュー、あとは外国の雑誌を読む担当になりました。ネタに繋がる、繋がらないに関係なく、みんなの前でこういうの読みました、っていう報告をするんです。もともと読むのは好きだったので、ファッション誌だけじゃなくて『TIME』とか『インタビュー』とか、あとは自分でその時々で適当に『HARPERS BAZZAR』だったり、『VOGUE』だったり、これはって思ったものを読んでは報告する、英語の特訓にもなりましたね。
 
Christian Wijnants(2007SS)
厳しい入場チェックのようす
(2007SS)
『here and there』vol.6/Nieves

パリコレ至上主義のファッション業界から学んだもの


編集会議で企画を通せたり、撮影や執筆、レイアウトとかをやらせてもらえるようになったのは10年くらい経ってからかな。編集会議では、自分が見つけてきた情報や企画を提案する。そこから誌面に吸い上げられることは滅多にありませんでしたが、いつも考える、ということをさせられたように思います。
 
ファッションについては1992年末、入社4年目ぐらいから下働きの下働きでパリコレに連れてってもらって、以来7-8年間続けて見ていました。パリコレの取材って、ものすごく過酷で、インビテーションの依頼にはじまり、電話してアポ取ったリ事前にそれが届いているかどうか全部チェックしたり、行く前から始まってるんです。現地入りしてからは、毎晩10時ぐらいまでご飯も食べないで駆け回ってました。会場が離れてますからね。
 
東京にいるとわからないんですけど、ファッションの世界では、パリっていう中心地が確実にあって、それに対してどういうスタンスを取るかっていうことが自分の立ち位置を決めることになるんです。
 
私は媒体内でも2枚目とか3枚目でパリコレを申し込む立場にいたので、とにかくチケットがもらえない。でも、『花椿』の中でパリコレのレポートを書かなくちゃいけないから、本当に見なきゃいけないのに。たぶん同じように苦労してる人は多いと思いますね。
 
たとえば、電話をかけてチケットくれくれって言うのはもちろんのこと、現場でインビテーション届かなかったけど入れろって強力にアピールして無理矢理入っちゃったり、チケットのような紙を持ってスッと入っちゃったりとか。とにかくみんないろんなことやってましたね。私もそういうど真ん中にいて、先輩方に囲まれながら見るための戦いをしなくちゃいけなかったんですけど、その戦いはその場で終わっちゃってる。入れたらああよかったで終わり。ところが、会場に入ってみると、日本人の席なんて末席もいいところ。新人のデザイナーにしろベテランのデザイナーにしろ、そういう人たちがやっていけてるのは日本という消費者がバックに控えているからであることは事実なのに、ショーに行ってみるとフロントロウは欧米人が占めている。そんな状況に甘んじてるのは何なんだろうって私なりに考えてみたら、その場だけの戦いをし続けてるからなんじゃないかっていう結論に至ったんです。
 
たぶん、日本人はパリコレにおける扱いの悪さを怒ってるんですけど、怒らせる原因は何かっていうと、日本っていう国がのっぺらぼうで怖いっていうか、どことなく正体不明な感じがするんじゃないかと思うんです。
 
そこで、私は、自分が『花椿』でレポートした文章を英語に訳して、こういう風に報道したので次はチケットくださいってやったんです。プレスルームに送ってもぱっと捨てられちゃったりするから、住所突き止めたりしてデザイナーに直接送ったりもしましたね。上司にもチケットの入手が難しいのはそういう理由です、と説得して翻訳の経費をもらって毎回、毎回送り続けました。
 
だからヴィクター&ロルフとかは、今でも私の顔を憶えててくれていて、いつだったかたまたま会ったときに、私はフリーになったからショーのチケットはもらえないよって言ったら、君は日本人でいちばん最初に自分のことをちゃんと書いてくれてそれを英語にしてちゃんと見せてくれたジャーナリストなのにねって言ってくれたりして。手間をかけてやってきて良かったなと思いましたね。
 
やっぱり地続きのヨーロッパの国々とは違う、日本っていう遠く離れた島国だからこそ、そこでもこのように報道しているっていうことを丁寧に伝えるべきかなっていう思いもありました。パリコレ主導のモードの世界は、欧米人の骨格に合うような美しい服を出していて、日本人のフラットなボディには似合うものではないし、歴史的に見てもまったく違うもの。パリコレについては、いろんな意味でそこにぶつかりながら学びましたけど、かなり厳しい世界であるのは事実。なかなか入り込めない世界なんですよ。
 
でも、同じようにパリのモード界に居ながらも違和感を感じて、違ったニュアンス、スタンスで作品を発表していきたいと思っているファッションデザイナーもいるんです。雑誌の編集者にもそういう人がいる。そんな「はみ出した者同士」っていうことで友だちができていった。実は、それが今の『here and there』のスタッフに繋がってきてるんです。そのなかのひとりが、今の『purple journal』の編集長のエレン・フライスです。
 
10月7日にパリで催された『PURPLE JOURNAL』最新号と
『here and there vol.6』の発表、COSMIC WONDERの
新作プレゼンテーションを兼ねたパーティーより

エレンが教えてくれたもの


エレンとの出会いは、私が92年末ぐらいから年2回パリコレを見に行くようになったころで、パリに行く度に約束して会って、ホンマタカシさんの写真集とか長島有里枝さんの写真集を持って行ってました。もちろん、当時は日本の写真集なんて欧米ではぜんぜん認知されてなかったんですけど、エレンはすごく雑誌が好きでクリエイティブにものを見ることができる人なので、例えば『少年ジャンプ』とかを見てその版型をおもしろいから『purple』で真似してみたりとか。そういうエレンに、私は日本のことを知ってもらいたくて、一生懸命、いろんな情報を送ったり、原稿を寄稿したりもしていました。
 
ファッションの世界では、ニューヨークとパリとロンドン、ミラノもそうですけど、全部が繋がってるんです。そこで勝負する人たちにとっては、「出世の階段」みたいなものがあって、新人がロンドンで実験的なことを始めて、パリのモードで洗練されて、そこで成功した人がニューヨーク行っていちばん高いギャラをもらうっていう流れがある。カメラマンもヘアメイクも基本的にそうやって繋がってるんです。例えばロンドンでノーギャラで『i-D』とかでファッションフォトを撮っていた人が、明日にはニューヨークの大御所カメラマンになるかもしれない。そういうサクセスストーリーが現実にあるんです。でも、日本はその流れにはまったく入ってないんです。
 
パリの書店の雑誌売り場と比べると、日本はものすごい数の雑誌があるじゃないですか。それだけの数の写真が生まれてるわけなんですが、世界とは繋がっていない。でも、だからこそ、ある層のクリエーターにとっては、日本という国に可能性があるんじゃないか、と見抜けたんじゃないかと思いますね。
 
別に、サクセスの階段がはっきりあっても、その階段を上りたくないっていうクリエーターもいるわけで、たとえばエレンとかもそんな階段をまっしぐらに上ることに興味を持っていない。BLESSの2人もそうだと思います。そういう人たちに対してだからこそ、実は日本は雑誌王国で、これだけのすばらしいビジュアルが生まれてるんだよっていうことを、その頃は一生懸命彼女たちに伝えていたんです。
 
『paris collection individuals 1998---1999』、
『同1999---2000』と『BABY GENERATION』
(リトル・モア・1996年・絶版)

東京のストリートが面白かった90年代半ば


パリコレがいちばんいい、とされている編集部にいたわけですけど、90年代半ばぐらいからでしょうか、そこに違和感を感じるようになっていたのも事実です。ちょうど東京のストリートの女の子のファッションがすごくおもしろくなった時代で、ピタTとかが流行りだしたころですね。パリコレの現実味のないファッションより東京のストリートの方がおもしろいっていう実感が自分の中で芽生えてきて、同世代の友人が編集長をやっている『DUNE』という雑誌に執筆させてもらったりしてました。
 
94-95年というと、例えばパリではエレンみたいな人も東京に興味を持ってたし、L.A.では『インタビュー』誌で写真を発表したりして雑誌に出始めたソフィア・コッポラとか、ニューヨークでももっと若い世代の人気アートディレクターが雑誌に花形的に取り上げられたりして、みんなそれぞれのスタンスで「東京大好き!」って言ってた。それがうわべのことじゃなくて、それぞれの人が、それぞれの深いところでその人なりに言ってたような気がします。今ではみんながふつうに言うようになってしまいましたけど。
 
東京の女の子の表現もおもしろかったし、ソフィア・コッポラも何度も来日していて、当時アメリカで始まっていたガーリーのムーヴメントとかにもすごく興味を持ちました。その後、ソフィアはファッションブランドの「MILK FED」を立ち上げたり、マイク・ミルズがキュレーションした展覧会をパルコでやったりして、実は、そのときつくった『BABY GENERATION』(リトルモア・1996年・絶版)という本は私がいちばん最初につくった本なんですよ。ソフィアと4人の女の子たちのお部屋やバスルームと、彼女たちの作品の写真がいっぱいのガ−リ−な写真集。そこには、パリコレのモードの世界と全く違うファッションの世界があって、それにものすごく惹かれたんです。でも、そのことを編集部で話しても当然否定される。否定されるとかえって伝えたい欲求って高まるんですよね。私の原点には、そういうところにテーマがあったんだと思います。
 

情報の洪水のなかで


1993~94年頃って街を歩くのが楽しくて仕方なかった時代。暇があれば街を散歩してました。でも、2000年になると街が発する情報量が多過ぎて、街じゃないところ、情報がないところに行きたくなったという感じかな。それは今もあんまり変わりませんね。もっとゆっくり、情報の少ない生活っていうのが自分の中でテーマとしてあったことに気づいたのかもしれません。
 
たぶん、日本の消費のいちばん大きなところはと無関係な場所に自分がいるということは、今も昔も変わらないんだと思うんです。今だと、LOHASとかが「ブーム」になっていたり。私が大学生の頃だって、『なんとなくクリスタル』がベストセラーで女子大生にスポットが当たってましたからね。自分と無関係のものが街のマジョリティに支持されることに対しては、今は何の違和感も感じなくなりました。
 
この間インタビューをした日本のデザイナーは、今の社会に生きてて人は目に見えない情報の洪水という攻撃にさらされてるように感じるって言うんです。そして、それにはユーモラスなセンスで攻撃を仕返すのがひとつのテーマになっている、と。とても共感を覚えましたね。彼女も私も66年生まれ。ファッションのテイストはそれぞれ違うんですが、マジョリティの世界に対する違和感みたいなものが、何かをするときの原動力になるっていう点は共通していてお互いに盛り上がりました。
 
『paris collection individuals 1998---1999』より
パリコレの新しい感性をまとめたブック、
『paris collection individuals 1998---1999』(右)と
『同1999---2000』(左)/ともにリトル・モア

『paris collection individuals 1998---1999』


そんな「違和感」を形にしよう、と思ったきっかけは、『花椿』のパリコレのレポートのために撮影した膨大な写真や情報が雑誌の1号だけでなくなってしまうのは、ちょっともったいないな、と思ったことからです。当時はすべてADの仲條正義さんにお見せして選んで頂くっていう作り方をしていて、掲載しないのにもかかわらず、次回のチケットをもらうために英語のサマリーまで作成していましたからね。
 
98年と99年、アウトプットは1年に雑誌2号分、1シーズン1シーズン、『花椿』のための取材なんですけどものすごい労力がかかっていた。雑誌ってやっぱり読み終えたら捨てるものなので、せっかく取材に答えてくれたデザイナーのことを思うと、もうちょっと人に見てもらえる形に出来ないかなという思いから、リトルモアに企画を持ち込んだんです。当時出版のトップだった竹井正和さんが、おもしろいからやってやる、と言ってくださり実現したのが、『paris collection individuals 1998---1999』です。
 
思い立ったのが1月の下旬ごろで、3月のパリコレに持って行くって言って作りました。無謀なスケジュールですけど、結局2年間続けて2冊つくりました。資生堂の宣伝部にいたデザイナーの平林奈緒美さんに、会社の仕事の隙間にやってもらって2人で作ったんです。
 
自分の作りたい本のイメージがあって、それに対して市場の中ではどれだけそういうものが難しかったり不可能だったり、その理由は何かとか、流通を目的としたときに、表紙はハードカバーである方がいいとか、竹井さんにはそういう鉄則みたいなものをいくつも教えて頂きました。
 
もともと私が惹かれる本というのが、どちらかっていうとフライヤー的というか、パッと手に取れるものが多く、そういうものはまず出版のルールからすると値段も安くなってしまうし扱い難いと嫌がられてしまうので、その掟を破るには自費出版でやるしかないっていう結論に至りました。同じコンセプトの本を2回作ってみて、本当の自分のしたいこと、憧れてたのは、すべてが自由な自費出版なんだということに気づいたんです。
 
当時、『花椿』でホンマタカシさんとお仕事をしていた関係で、ホンマさんの会社時代の後輩でADの服部一成さんとも知り合い、彼もまた独立しようとしていたこともあって、私も会社を離れることを決心した時期でもあり、何か作ることになったときにはぜひお願いしたいな、っていう話をなんとなくしていたんです。服部さんも『流行通信』とかやられる前でしたね。
 
2002年3月『here and there』創刊号
(SOLD OUT)

『here and there』創刊


『花椿』はメディアとしての枠組みが伝統的に決められていて、例えばこのページはビジュアルはこうで、文章はこう、っていう形が決められているんです。歴史のある媒体なので仕方がないんですが、私としては、いろんな世界の新鮮なはずの物事を決まった型に落とし込まなきゃいけないことにもストレスを感じるようになっていました。それぞれのニュースはそれぞれの色とかにおいがあって、それに合った場所だったり、発信する側もそういう自由さを持ってていいんじゃないかって思うようになっていったんです。
 
たくさん集めた資料の中から情報の上積みだけを原稿としてまとめるページもあって、その頃急に仕事量が増えたこともあり、抱え込む資料や読む情報もたくさんあって、原稿を書いていると肩こりはひどいし、頭痛はするし、ビジュアル的な達成感はあったんですけど、すごくストレスを感じるようになっていました。もともと雑誌や資料を読むのが好きなので、あると全部読んじゃうし、消化してやってしまうんですけど、ある日、それがトゥーマッチに感じて、そんなにたくさんの情報や資料を世界中から集めてきて発信することより、自分が本当に心の通じ合う友だちと会話してピンと来るようなことだけを発信する方が意味深く思えて、それが人にも届くような気がしたんです。そして、2001年の夏に退社しました。
 
『here and there』の創刊号は、02年の3月のパリコレに持っていくために作ったので、準備を始めたのは01年の12月末ぐらいからかな。自分の中では、以前平林さんとつくった2冊の『paris collection individuals』のような本を1年に1冊作るっていうイメージでのスタートでした。
 
年末に年賀状を書くじゃないですか、そんな感じで今年の本はこんな感じかなってイメージして、作る1ヶ月だけ、ガーッと集中して作るっていう感じです。生活自体はそんなには変わりませんでしたね。
 
メールとかで友だちに今度こういうことするから参加してとお願いしたり。基本的には作るために無理して集めたり何したりっていうんじゃなくて、その時点でパッと今っていうものを休止してまとめてみるとこんな感じ、みたいな。そういう出版物を最初から目指してました。100%の回答が書かれている、たとえばファッションとは何か、みたいな本は作りたくない。
 
とはいえ、ビジュアルブックだからオールカラーにしたいけど当然印刷費が嵩むわけですよね。『paris collection individuals』のときに、リトルモアの竹井さんに、リスクを負わないよう、広告を集めてきたら作らせてやる、って言われて、結局いろんな方にお願いをして広告を出してもらったんですが、印刷費実費みたいなのの6、7割を広告費でカバーしてっていう、わからないなりに得たハウツーを『here and there』にも応用し、印刷コストはなるべく抑えつつ、その6、7割をボーダーラインと考えながら広告を集めるのも平衡してやってきました。
 
とにかく本の収入っていうのは作ってから半年経って最初の売上が入ってくるかこないかという感じなので、1回目はほぼ全額立て替えだったと思うんですが、次の号とかが出る頃にタイミングが遅れて前の号の売上が入ってきたり、ホームページで販売している分はダイレクトに入ってくるので、なんとなく今まで続いてるんです。
 

続けていくということ


ほんとうに行き当たりばったりで、3号目のときは妊娠しちゃったので、もう最後かもしれないっていう気持ちで作ったし、4号目は子どもが産まれてから自分の生活の激変ぶりに耐えかねて、自分のアイデンティティみたいにもう1回作りたい、作れることを実証したい、みたいな気持ちで作ったし。5号目は4号目を見たBLESSから、いっしょにやりたいね、と言われて、半年しか間がなかったんですが作っちゃったり。全然ビジョンとかなくて、現実に対して反応しているだけ。5号目と6号目の間になって初めて、継続することを意識するようになったんです。どうしたらいいんだろうって。
 
全部自分でやりたくて始めたんですけど、やっぱり編集と広告集めから本屋さんへの流通や出来ましたっていうことをマスコミにPRしたりなど、ひとりではやりきれないこともわかってきた時期でした。もし続けられるとしたらどういう方法があるだろう、って悩んで海外の友だちとか出版社の友だちとかにメール書いたりしていたら、資金の負担は出来ないけど広告をいっしょに集めて制作するっていう形だったら出来るかもしれないね、と言ってくれる人が出てきた。国内でも、なんとかここまで続けてきたけど、今後のことで困ってるって相談をしたら、自分の出来ることなら手伝ってあげようかって言ってもらったり。
 
去年の年末ぐらいだったか、今度こそもう最後かもって思っていた矢先、海外から取材依頼のメールが届いたんです。ニューヨークの出版社からで、『ラストマガジン』という世界中のインディペンデント雑誌を150種類ぐらい紹介するというもので、そのなかの1つに『here and there』が入っているって言うんです。しかも、本として書店で流通するだけでなく、同時にアートの展覧会としていくつかの都市を巡回するんですって。ロンドンからも、デザイン本を作っている人が作る『マガジンアート』っていう本から、雑誌というもののいろんなあり方っていう企画で、グラフィックデザインのあり方みたいな記事のなかで紹介したいからデータを送ってくれという依頼が来たり。
 
また、1月下旬、ちょうど私の誕生日頃には香港から掲載誌が送られてきた。『RMM』という雑誌で、以前、言われるがままにいろんな図版を送っていたんですが、なんと10ページに渡り、『here and there』および林央子特集みたいなことになってたんです。並びも草間彌生さんにやなぎみわさん、あとは20代の若いイラストレターとか。たぶん、世代別にみた日本の女性クリエーターのライフスタイルっていうことだと思うんですが、それぞれ10ページぐらいの大特集です。でも何より衝撃的だったのは、雑誌が送られてきたときに、私たちも昔はこうだったっけ、っていうものすごく新鮮なものを感じたことですね。
 
今はもうみんなやらなくなっちゃったと思うんですけど、90年代前半までは、読めない海外の雑誌をむさぼるように見ては、海外の知らない街の情報に興奮したり、一生懸命海外に行ってクリエーションのソースを探したり。そういうことが好きなクリエーターや編集者がたくさんいたんです。でも、今は情報が溢れすぎてて、自分で取材に行って見つけることもしなくなっていて、既に有名なものとして紹介されているものをなぞって紹介するとか、雑誌もそういう感じに傾いてて、日本の雑誌も海外の雑誌も発見感がなくなっちゃった。見てびっくりしたり、ドキドキするような雑誌がなくなった。そう思っていたんですけど、『RMM』はそれを快く裏切ってくれて、自分が出てるっていうのもあるんだけど、これを作ってる人たちがとにかくエキサイトしながら作ってるメディアだっていうのが伝わってきて、版型もちょっと凝ってたりしてワクワクしたのは事実です。
 
服部さんに喜んで見せに行ったら彼も気に入ったみたいで、こんな感じでいいんじゃない、『here and there』もこのぐらい身軽になってもいいよね、という話になったんです。それまではいろいろな付録が付いてますみたいなことをやったんですけど、そこでちょっと吹っ切れて、続けていくんだったら、もっとシンプルにした方がいいかもね、ということになったんです。
 
スイスのnieves出版による、世界中のイン
ディペンデントマガジンを集めた展覧会
「no12 gallery」 で開催中(10月28日まで)

洋書になって「広場」になった『here and there』


『here and there』は今回から版元がスイスの「Nieves(ニーブス)」いう出版社になったんですが、これももともと知り合いだった代表のベンジャミンに相談のメールをしていたなかで決まっていったことなんです。彼は大学生の頃にインディペンデントマガジンを作り始めて、今では、マイク・ミルズやキム・ゴードン、ラリー・クラークなんかの本もリリースしていて世界中に流通させている。

『here and there』が海外の版元になることで、送料のこととか発売時期のズレを考えるとデメリットもあるんですが、日本のメディアの中での扱われ方はいろんな意味で好転しました。また書店では洋書扱いになるので基本的には買い取りということになり、国内での流通は「ユトレヒト」の江口さん(江口さんのインタビュー記事)がやってくださることになったりなど、最初から意図していた訳じゃなかったんですけどずいぶん作る側にとってやりやすくなってとても助かっています。
 
日本がプレリリースになって、スイスは2ヵ月半ぐらい遅れてインターナショナルリリースになるんですけど、Nievesと組むことになったことで初めて自費出版というか、自主出版というか、そういうプロジェクトにふさわしい、巡り会うべき印刷屋さんにも出会えたり、いろんな出会いがありましたね。いろんな方の力を借りたんだなってつくづく思います。
 
結局、今号は印刷費を超えた広告費が集まりました。本当にこういうのってお金にならない好意で動くというか、動いてくれる方がいるとしたら、本当に興味があるからこそ動くという世界だと思うんですけど、それにしても同じようなことをしている人に迷惑かけるのは心苦しいし、Nievesにとっても何かメリットがあるとか、みんなにとって広がりが出るような「広場」のようなものに、なんとなく持っていきたかった。それが実現できたような気がして嬉しかったですね。
 
『here and there』最新号の表4には、
「ところ どころ」のふりがなが

Here and there, あっちこっち---


次のアイディアはまだないんですけど、今号で住宅のレポートをしてくれたアン・ダムスっていうベルギー人のアーティストの友人が、自分でネタ探してくるからとか言って、夏休みの体験を取材にしてくれて、写真も撮ってきちゃって、ひとりで勝手に始まっちゃってる。実は彼女も私と同じ「丙午」で、やると決めたらものすごい勢いで突き進んじゃうタイプなんです。丙午、ファイアーホースは中国が起源かもしれないけど、欧米でも多くのアーティストやそういう素養のある人は日本文化への関心が高く、日本の美術とか歴史にも詳しくて、彼女も会う前から自分の干支を知ってたんですよ。ふだんはすごくおっとりしてかわいい女性で、話してると心が和む感じなんですけどね。熱中するとすごい速度でつき進む人で、「もうアンは行っちゃったよ」って、よくボーイフレンドが言ってました(笑)。
 
今回のパリコレの間も、エレンが『purple journal』のラウンチと『here and there』のラウンチと、「コズミック ワンダー」とでいっしょにパーティをやろうよって言ってくれていて、今回私は家族旅行だからちょこっと顔出すぐらいになっちゃうよ、って返事を書いたんですけど、そういうところに行くと、また何かを思いついたりすることがあるかもしれないな、と思っています。
 
『here and there』ってエレンが付けてくれた名前なんです。昔、私が日本にいて海外の雑誌を読みあさって頭でっかちになりがちだったころ、パリに行って、やっぱり行ってみて、感じてみて何ぼだなって実感したことがあったんです。二次的な情報で満足していてはいけないというか、編集者の基本、いちばん必要なことが、あちこち行くっていうか、行ってみるっていう行為だと思うんです。そんな思いも込めて決めました。
 
私はフィクションを書いたりとか、自分の想像の世界を構築するんじゃなくて、今そこにある何かを、その人なりをパッとつかまえて、人に伝えるっていうことがしたいんです。基本的に取材が好き。だから、『here and there』は、雑誌と本の中間のようで私の趣味の世界が出ざるを得ないかもしれませんけど、1年に1回、作ってる私自身も体で感じたいし、読んでくれている人にもそこで何かを感じてくれたらいいなって思っています。というか、自分なりのホンモノを見つけにあっちこっちに出かけていって欲しいですね。
 
[取材日:20006年9月25日@Dragonfly CAFE南青山/インタビュー・文:高野公三子]
 


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