シリーズ企画「シブレキ」 〜渋谷文化事件調査委員会〜
レポート
2017.12.14
カルチャー|CULTURE

シリーズ企画「シブレキ」 〜渋谷文化事件調査委員会〜

第1回:カウンターカルチャーからサブカルチャーの時代へ。(後編)

前編でも触れたように、新宿を中心とした60年代の左翼・学生運動が潰えていく中、寺山修司が主宰し渋谷を拠点とした演劇実験室「天井棧敷」には、新しいカルチャーを求めた若者たちが集っていた。

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第3回日本グラフィック展
1枚の写真を見ながら、榎本さんがふり返る。
 
「萩原朔美さんと一緒に代官山にマンションを借りて、事務所にしていました。この写真にも写っている安藤紘平、かわなのぶひろ、山崎博なんかが集まった。当時はみんなフーテンだったけれど、その後全員、大学教授(笑)」。
 
榎本さんが言うように、後に榎本さん自身は京都造形芸術大学、萩原氏は多摩美術大学の教授となった。また、安藤紘平氏は映像作家として活躍して早稲田大学で、同じく映像作家になったかわなのぶひろ氏は東京造形大学で、写真家となった山崎博氏は武蔵野美術大学で、それぞれ教鞭を取ることになる。新しい「渋谷発のカルチャー」は彼らを軸に展開し、現在では大学教育に昇華されることで「日本のカルチャー」として次の世代に影響力を保ち続けているのだ。

 
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彼ら「寺山チルドレン」が生み出した成果の代表格が、かつてパルコが発行していた月刊誌「ビックリハウス」だ。
 
読者からの投稿をベースにしたこの雑誌は、「読者の上に読者を作らず、読者の下に編集者を作る」をキャッチフレーズに、若い読者の熱狂的な支持を集めた。
 
「留学から帰ってきて、アートをテーマとした雑誌を創刊したいと考えていました。萩原さんと相談するうちに、パルコに飛び込みで企画を持ち込もうということになった。当時、専務だった増田通二さんが、萩原さんのお母さん(※小説家・エッセイストの萩原葉子)のことを“憧れのマドンナ”なんて言っているらしいから、って(笑)。1974年のことです」。
 
こうした榎本さんたちに、増田氏は「アート誌はいいからさ、渋谷のタウン誌をやってみないか?」と逆に持ちかけた。
 
「そう言われて少し戸惑ったけど、タウン誌の企画を書いて持っていったんです。とにかく雑誌を出したかったから。そうしたら、企画は即決。なんと、その場で100万円くれました。すごいよね〜(笑)」。
 
榎本さんたちは、その100万円を資本に編集会社、株式会社エンジンルームを設立し、12月に「ビックリハウス」は創刊される(※1975年1月号)。榎本さんが続ける。
 
「夏に100万円もらったから、冬に出さなきゃならなかった。雑誌なんて作ったことないから、企画はもうデタラメ。創刊号なんて、東京中で雑草を拾ってきて、おひたしにして食べたり(笑)。特集タイトルは『君の窓から地球は見えるか』『ホール・アース・カタログ』とかヒッピージェネレーションの影響を、モロに受けてたよね」。
 
「朝ドラになりそうですね」と辛酸さん。榎本さんが応える。
 
『暮しの手帖』の裏話よりおもしろいかも(笑)。編集会議が終わるたびにバイトを連れて焼肉を食いに行ったりして、本が出る前に資本金がなくなってきていた。こっちはまさに『その日暮しの手帖』(笑)。カネがなくて原稿料が払えない。だったら、読者投稿を中心にしちゃえ、と」。
 
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若手クリエーターの登竜門、“URBANART#1(左/1992年)と、“Nippon Object Exhibition/第1回日本オブジェ展作品集”(右)。
榎本さんによれば、当時、読者に人気があったのは、こんな企画だ。
 
「特別な才能がない人でも投稿できるような企画にこだわったのね。たとえば、『全国高校ジャンケン選手権』。パ・グ・チの3文字を組み合わせて、とにかくハガキに9文字書いて編集部に送る。これはもう、誰が優勝するか分からない(笑)。あと、『ノンセクション人気投票』も話題になった。これは、極私的だけれど自分が熱烈に好きな人を投票するコンテンスト。『ニッポーのお姉さん』という早稲田大学の近くのレコード屋のお姉さんが、一等賞に選ばれた。山口百恵やアグネス・チャンを差しおいてだよ(笑)」。
 
ほかにも、雑誌『an・an』のパロディで、犬好きを読者に想定した『wan・wan』糸井重里氏が「編集長(男)」を名乗って常設のお題に読者が投稿する『ヘンタイよいこ新聞』、日常の驚いた出来事を投稿する「ビックラゲーション」、短編小説のコンテスト「エンピツ賞」などヒット企画を連発。常連投稿者の中には、後にタレントや文化人として有名になった人も少なくない。パロディ、ナンセンスな感覚が受けた時代だ。
 
『ヘンタイよいこ新聞』の問の立て方は新鮮でしたね。世の中を乾かしてくれた感じがする。義理とか人情とかいう湿っぽいものから乾かしてくれた」と、しりあがりさんは言う。
 
「そんな『ビックリハウス』は85年に休刊します。理由はなんだったんですか?」(辛酸さん)。
 
「そうですね。『ビックリハウス』と並行して77年に『日本パロディ広告展(後にJPC展に)』が始まって、パロディとしては今ひとつだけど、絵がうまいという若手クリエーターを対象に、80年、『日本グラフィック展』、グラフィック以外のジャンルということで、84年に『オブジェTOKYO展』を始めました。その後、92年にそれらを統合して『UARBANART(アーバナート)』という企画になり99年まで続いたのですが、この間、85年に『ビックリハウス』は休刊する。おそらく、創刊から12年経ってマニエリスム(※ここでは「マンネリ」くらいの意)に陥っていたともいえるし、萩原さんが多摩美の教授、僕がテレビの司会をやるようになったりと2人とも忙しくなったこととか、またひょっとしたら、増田さんが『ビックリハウス』を嫌いになったのかもしれない。でも、足掛け20年に渡って若者を支援していたのは事実で、そういうムーブメントが時代とともに変わっていくのは当然なのかもしれませんね」(榎本さん)。
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しりあがりさんは、第3回日本グラフィック展で大賞を取った日比野克彦氏と多摩美で同級生。街をダンボールで表現することで、コンクリートジャングルの様相を一変させる手法に楽しさを覚えた。また、先ごろ東京都写真美術館で「長島有里枝〜そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」と題した個展を開催した写真家の長島有里枝氏が、家族のセルフヌードで世間に衝撃を与えた1993年、辛酸さんが在籍していた武蔵美でもセルフヌードが流行ったという。長島氏が注目されたのは「UARBANART#2」でパルコ賞を取ったことがきっかけだ。このように、前編にも記したように、「寺山チルドレン」たちの仕事がその後、グランドチルドレン(※孫)の世代に着実に受け継がれているのは、どうやら間違いなさそうだ。
 
「ところで、最近注力されていらっしゃるのはどういったことですか?」。セッションの最後に、しりあがりさんが榎本さんに訪ねた。

「実は、2000年ごろから丸の内の再開発に関わってきました。夜になると人が銀座に流れちゃうということから、まず『丸の内カフェ』をつくりました。丸ビルのオープニングにも関わりました。2003年には世界の若いアーティストを集めた「カウパレード東京2003」をプロデュースして、丸の内エリアを牛のアートでいっぱいにしたり(笑)。これには日比野克彦くんも出品してくれました。

現在関わっているのは新宿です。新宿にはゴールデン街のような復古的ものはあるけれど、先端カルチャーがない。面白くするにはどうすればいいか。そこで、新宿を西口、東口、3丁目、神楽坂など6つの村に分解し、各地区に村長をおいて新宿村長サミットをやったりしています」。

会場には、YMOチェッカーズ等の総合プロデュースも手掛けたアートディレクター、奥村靫正氏の姿も見えた。榎本さんが続けた。

『ビックリハウス』には、奥村靫正さんやイラストレーターの秋山育さんといったビジュアル・クリエーターが早い時期から参加してくれました。まだみんな20代だった。1冊の小さな雑誌が、渋谷に若い人々が集まってくるきっかけを作った。それが今の仕事につながっていることを、最近改めて感じています」。

[取材/文:夏丘周(フリーライター/テクニカルライター)]

 
●次回は、シネマライズ代表の頼光裕さん編集者・クリエイティブディレクターの後藤繁雄さんをトークゲストに迎えて10月28日に開催された「シブレキ第2回:シネマライズが牽引した、渋谷ミニシアターカルチャーとは?」のレポートです。

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