2007.01.06
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松本圭介/Matsumoto Keisuke インタビュー

松本圭介/MATSUMOTO KEISUKE

法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年6月25日北海道小樽市生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界に。2003年に宗派を越えた僧侶や仏教に興味のある人たちが集うウェブサイト「彼岸寺」を設立。その後、お寺を会場とした音楽イベント「誰そ彼(たそがれ)」や寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を運営している。2005年12月、『おぼうさん、はじめました。』(ダイアモンド社)上梓。

「生きることの意味」への興味

母方の祖父が浄土真宗のお寺の住職だったということもあってか、子どもの頃からお坊さんには親しみがありました。おじいさんのうちに遊びに行くということは、そこがお寺なわけですからね、ふつうに境内で遊んでいました。もの心がついた頃から思想とか哲学とかが好きで、おじいさんに仏教の本を借りたりもしていました。今思うと、どこかに仏教の方向を向く種というか、そういうものが心の中にあったのかもしれません。

中学校の頃も仏教の本をよく読んだりしていました。といってもふつう一般の子が関心を持つようなことにも興味がなかったわけじゃないですけど。大学で何を勉強しようかなと思ったときにも、やっぱり哲学がいいなとあまり迷うことなく哲学科に進学しました。

大学2年生くらいになると、卒業後は何をしようかなって考えるじゃないですか。法学部とかだったら弁護士とか官僚になろうとかあるんでしょうけど、僕は興味として哲学科を選んだだけで、学科を職業に結びつけようなんて全然思っていなかったので、さてどうしようということになったんです。でもまだ社会がどんな感じかわからないし、だったら学生のうちに社会と接点を持ってみようという思いもあって、得意だったインターネットの仕事、プロバイダーのサイト開発ってほどでもないですけど、そういうことを課外活動として始めることにしたんです。

当時はちょうど企業や個人がホームページをこぞって立ち上げた時期で、「うちのも作ってくれ」とけっこう声がかかったんです。それをきっかけにいろんな人との繋がりも出来たりして、それぞれの業界の雰囲気とか、職種なんかを知ることができて勉強になりましたね。他にも、友だちとクラブのイベントとかを企画したりもしていましたし、その他にも知り合った広告代理店の人とか出版社の人とかとも接点を持ったりもしました。そうやって、自分が興味がある業界の人と知り合って、いろいろ見たり聞いたりやってみたりすることで、自分のやりたいことが自ずと見えてくるのでは、と思っていたんですが、いざ就職って考えると、なんだか今イチどれっていうのがなくて。

そうそう、実は、政治ってどういうことなんだろうと思って、たまたま知り合いの紹介で国会議員のホームページを立ち上げる仕事を請け負ったこともあります。ちょうど、政治家もホームページを持たなければ、といったムードが高まってきた頃で、それは面白かったですね。永田町で物事が動くんだなっていうのがなんとなくわかったっていうか。

「この世」と「あの世」

僕は今、宗教というフィールドで仕事をしていますけど、もともと、目先のことにとらわれない大きな視点で取り組めるような仕事に就きたいと思っていたんです。それが最近、なんとなく、政治と宗教は近いものだなと思うようになりました。

政治は「この世」、現実の社会をいかにより幸せなものにしていくか、そういうことを考えて実際に実行していく仕事ですけど、宗教は、いわゆる「あの世」のことというか、死後のことや生まれる前のこと、現実の社会ではわからないこと、そういうことをひっくるめて扱いますよね。政治は「この世」の幸せ、宗教はもっと大きくて、「あの世も含めた視点から見たこの世」の幸せを見ていく、そう考えると、すごく面白い。

お坊さんになろうと思ったのにはいくつか理由があって、ひとつは、今この現実社会でいろんな人間の感覚っていうか、習慣だとか、倫理的な判断基準だとか、そういうものを作っているのは、今この現実事態がそれを根拠にしているわけではなく、もっと歴史的な、宗教的な積み重ねがあってこうなってきたわけですよね。簡単に言えば、日本語っていう言葉も仏教的な思想がものすごく入っているわけで、考え方とかもそういう背景があって、今の現実社会が出来上がっている。その遡った根本の部分っていうのを扱ってみたいっていうふうに思ったからなんです。

あとはまた全然別の視点ですけど、いろんな人の価値観を作り出す、形成する上で、宗教ってものすごく大事だと思ったのも確かです。ただ、今この日本で宗教ってどうしてもネガティブに見られているところがありますよね。本当はとっても大切なもののはずなのに。宗教っていう言葉が悪ければ、宗教的感受性っていってもいいかもしれないですが。そういうのをちゃんと養っていくことによって、倫理観というようなものも形成されていくんだ思うんですけど、そのへんが歴史のひずみでうまくいってないのは事実ですよね。それはとってももったいないことだと思ったんです。

そうなってしまった原因は、ひとつには宗教関係の団体がいろんな事件、社会問題を起こしているのもあるとのもあると思うんです。どうしても宗教っていうと胡散臭いとか、思考停止してしまうっていうか、辛いときに全然別の価値観を入れてしまって一丁上がりっていうか、そういうイメージがありますよね。でも、本当はそうじゃなくて、むしろ宗教はゴールじゃなくて、ちゃんと人として生きていくためのスタートラインに立たせてくれるものだと思うんですが、それが伝わっていない。

日本にも伝統仏教っていうのにはいろんな宗派がありますけど、本当にこれまで大切にされてきたからこそ残っているわけで、そういうすばらしい教えがたくさんあるのにも関わらず、悩んだ人が駆け込む先はお寺でない場合が多い。決してそれが全部悪いっていうわけではないんですけど、せっかく日本中に昔からのお寺がたくさんあって、仏教、伝統があるにも関わらず、なぜか宗教を選ぼうっていうときに選択肢に入ってこない。すごくもったいないですよね。

そんな漠とした疑問を持ちはじめたのが大学1年か2年の時だと思うんですが、「仕事」は生活を成り立たせるために必要なものっていうのもありますけど、それよりも、一生かけて取り組んでも悔いの無いことを「仕事」として選びたいなって思ったんです。そしたら仏教だなって思ったんです。伝統仏教の持っている良さを、少なくとも人が宗教を意識ときに、第一の選択肢にあがってくるようなところまで引き上げたい、そう思ったんです。

もちろん、それには外部からやることもできます。研究者となっていろいろメッセージを発していくとか、評論家になるとかね。でも、自分自身が社会的とか関係なく、個人的にもお坊さんとして仏教っていうものに向き合ってみたいっていう気持ちがあったことと、誰かしらかが外から中に飛び込んでみて、初めてわかってくることってあるんじゃないか、自分はそういう役目かな、って勝手に思ったんです(笑)。そういえば子どものときに祖父が、「圭介も大きくなったらお坊さんになって仏教界を変えてくれないかな」って言ってたな、なんて思い出したりして。そういうのもちょっと後押ししてるのかもしれませんね。

宗派は悩むことはなく、祖父のお寺と同じ浄土真宗を選びました。とはいえ、具体的にどうやってお坊さんになったらいいかなんて分からない。実家の方のお寺に相談しても良かったんですけど、北海道ですしね。自分が東京に出てきて、東京っていう場所がいいか悪いかは別として、東京っていう場所の影響力って大きいじゃないですか。ここを現場としてやってみたいっていうのがあったので、とりあえず、友だちを辿ったら、たまたまお坊さん関係の友だちと繋がったので、相談して紹介してもらったのがここのお寺だったんです。

お坊さんになるにはどこかに所属しないといけないんです。うちの宗派だと本山が西本願寺っていうところにあるんですけど、まず一般寺院のどこかに所属させてもらって、そこの推薦を受けて、この人をお坊さんになる研修を受けさせてくださいっていうことで送り出してもらって本山で受け入れてもらうという流れになります。

一応それにあたってはちゃんとお経が読めるかとか、最初の1ヶ月ぐらいは、お坊さんになるっていうところにいくために、お経の稽古をしてもらったり、基本的な仏教のことを教えてもらったり。といっても大学卒業してお坊さんになろうって決めたのは、4年生の春ぐらいですかね。

「higan.net」開設

最初の頃は、「お寺でお坊さんをやる」っていうのがどういうことかというのを身に付けていきました。法事をどういう風にやるかとか基本的なことを学び、その後、宗派のこととかも勉強するようになりましたが、いろんなお坊さんの知り合いも出来、情報交換をしているうちに、あまりにお坊さんやお寺、宗教についての身近な視点に立った情報が少ないということを感じて、だったら自分の身をもって日々の体験を日記で綴ろうと、「higan.net」っていうWEBサイトを立ち上げました。

始めてみるといろんなことが見えてきた。みんなお坊さんとかお寺に対して、歴史が長い分、ものすごい先入観があるんですよね。その先入観がけっこう矛盾してたりして。お坊さんてお酒飲んでいいんですかって言うわりには、けっこう法事の席で勧めてきたり(苦笑)。そういう、人々のなかに張り付いてしまったお寺や僧侶に対する先入観やイメージを、1回削ぎ落として、宗教とは一体なんだったんだろうって再編集していく作業が必要なんだと思いました。

一方、お坊さん側からみると、宗派だけの集まりが多いので、意外と他の宗派のことを知らなかったりすることも分かりました。たとえば、一般の人が、これこれこういう悩みがあるのでお寺に相談しようって家の近くのお寺を訪ねたとしますよね。でも、うちではそういう考え方はしませんよとか、うちの宗派ではそれはやっていませんとかっていうケースも少なくないみたいなんですが、それでは門前払いになっちゃうじゃないですか。せっかくのご縁を失うことになりかねません。まずは誰がお寺を訪れてもちゃんと対応出来るようにというか、他の宗派では同じことについてどういう考え方をするのかとか、他宗派理解っていうのをちゃんと整理しつつ、横の連携も取りながら実際にいろんな人が持っている悩みとかに答えていくにはどうしたらいいのか、っていうことを考えていくべきだと思いましたね。現実的に考えると、そういう繋がりって必要だろうなって思ったんです。そのへんは今、「higan.net」で「超宗派」っていうところでやってますけどなかなか進んでいませんね。あまり超宗派による繋がりがあるところってないんですよね。それでも賛同してくれる人も最初は数人いて、「higan.net」もその輪の中でやっていくうちに徐々に広がってきて、05年に、所属するお寺で「神谷町オープンテラス」っていうのを始めたんです。

イベントとオープンスペース

「神谷町オープンテラス」は、賛同してくれたのがお坊さんだけじゃなくて、いろんな関わりの中で、何かしらお寺に思いがある人や単純に気持ちがいいっていう人も含めて繋がった輪があったからできたんだと思いますね。

今はクローズ期間なんですが、開けているときは、火鉢に炭を入れて、ドリンクとかも出していて、みんながお焼香して帰っていく、そういう風景が見られるんですよ。訪れる人はぜんぜん特別な人じゃなくてふつうの人たち。近隣で働いている人がランチに来たり、週末はカップルがデートに来たりとかね。場所がら外国人の方も少なくないですね。常連さんもかなり増えましたし、ここで知り合いになったっていう人もいるみたいですよ。

隅にカウンターを配備して、メニューは出してるんですけど料金はありません。だから、初めての人はコーヒーをお願いします、いくらですかって聞くんですけど、お気持ちでけっこうです、あちらのお賽銭箱へどうぞって答えるんです。

そもそも仏教っておおらかで、同じ山に登るのにもいろんな方法があって、それが宗派みたいなものなんです。簡単に言ってしまうと、結局目指しているところはいっしょなんだから、全部ひっくるめて仏教って呼びましょうっていう考え方なんです。だから、宗派関係なく、町の中にこういうスペースがあって、昼はお寺に行くっていうライフスタイルになったらいいな、って思って始めたのがきっかけです。

その前に、お寺でアンビエント音楽を聴きたいね、っていう話から企画した音楽イベント「誰そ彼(たそがれ)」というのをここ光明寺でやってるんですけど、けっこういい雰囲気で集客も多くなってきたので、じゃあ築地本願寺でもやろうっていうことになり、築地本願寺で年に1回、「他力本願で行こう!」っていうイベントも企画しました。無事に昨年9月に2回目を実施しました。おかげさまで事前の告知もたくさん取れて集客もばっちり。大好評でした。

でも、よく考えると、何もわざわざ集まらなくてもよくって、こういう何気ないオープンテラスみたいな場所があって、お昼はお弁当を食べてちょっとホッとした気持ちになって、仏様に感謝の気持ちを持って手を合わせて帰っていく。それが生活の中にあるライフスタイルって素敵じゃないですか。仏教思想を勉強して理解するっていうことも必要だとは思うんですけど、同時に形というか、日頃の生活の中にそういう感謝する時間っていうものが組み込まれていくことによって、自ずと身に付いていくことがあると思いますね。

実は、お寺もより多くの人に来て欲しいっていう気持ちがあるんですが、ただやり方がわからない。ですから、僕たちがやってきたように、こういう仕掛けをしてみたらこうなりましたっていうものがいくつか起こってきたら、だんだんうちでもこういうことをやってみようかなって、ある種のムーブメントになっていったらいいなと思いますね。実際に地方のお寺とかでイベントやり始めたりしているところもあるみたいですよ。

僕らが最初にできたのは、たまたま東京・神谷町という立地だったということも大きいと思いますね。これと同じことを何処でやってもうまくいくかっていうとそんなことはなくて、それぞれの場所でやれることってあると思うんですよね。そういうのを住職さんの個性とか、お寺の環境、特性を生かした企画がいろいろ出てくると楽しいですよね。

本物しか残れない、「WEB2.0時代」に

僧侶になって3年半。まだ27歳で分かることなんてたいしたことないんです。ただ、これからあまり合理主義的な考え方や管理的、強制的な中で何かをしようと思っても、たぶんもうすぐ立ち行かなくなるだろう、という確信だけはありますね。本当に大切なものって何なんだろう、って立ち止まって考える必要がある時期に来ている。お寺は、その本当に大切なものを守り伝えていくのがひとつの役割なんだと思うんです。

起業家を志す人で、とりあえず上場して売りに出て終わりみたいな、そういう無責任なケースもしばしばあるようですが、それではいけない。そうじゃなくて、自分自身の人生っていうのを、すごく長い長い歴史の中の一瞬にしか過ぎないんですけど、間違いなく一瞬ではあるわけですよね。遡ればたくさんの先祖がいますけど、今たまたま自分がここにいて、その後に続く人たちがいて、たとえ自分の子どもがいなくたって、いろんな影響の中で、次の時代の人たちがたくさんこの後に続いていく。今はその円の中のほんの1点ではありますけど、かけがえのない1点。たまには、そういう大きい視点からものを考えてみないと、社会全体がおかしくなっちゃうと思うんです。

そんなことを、仏教も気が長い話ですが、お寺なぞにたまに来て、感じてもらえたらいいんじゃないかと思うんです。と言いつつ、自分が今ものすごく忙しくてなかなかそういった心境からは遠いのが矛盾していますが(苦笑)。

「宗教」が今の自分の暮らしをより豊かにしてくれるかっていうのはちょっと逆転していて、「宗教的な物事」こそが豊かさの根本にある。忙しい日々に追われて消費している、消耗品のような人生にちょっと彩りを加えてくれるひとつのアイテムとして、「宗教」というアイテムが増えたっていうような位置付けではダメで、根本から逆転させないといけないと思うんですけど、なかなかそうはなれないですね。

これから「WEB2.0時代」がやってきて、本物しか残れない、ホンモノの情報しか残れないっていう時代になったときに、宗教界にも少なからず影響があると思いますね。

宗教ってなんでうさん臭いって思われているかって、実態がよくわかんないからですよね、閉じたコミュニティだったから。でも、これからは情報公開しつつ、どんな視線にも耐えうるものだけが残っていく。教えもそうなんですけど、お寺の経営とかも、みんなの気持ちを結集して、気持ちが集まって形となってお寺が運営されていく中で、今後、お寺が発展していくにあたって、情報公開は重要なポイントになっていくと思いますね。住職さんがちゃんとやってるのかとかもね。厳しい時代ではありますけど、でも考えようによっては、これから伝統仏教がちゃんとやっていけば、必ずや盛り返す時代になっていくんじゃないかって思います。ちゃんとやればちゃんと評価してくれる人もいるはずですから。

身近なところでお寺に接点がある人って決して多くはないと思うんですけど、何かしら機会があったらお坊さんにも積極的に話しかけてみてほしいなって思いますね。お坊さんも話しかけられるのを待っていると思いますよ。お寺を舞台にいろんなことが起こってくればすごい楽しいと思います。伝統があるからこそ、クリエイティブなおもしろさも出せるっていうこともあると思うんですよね。

伝統の中でいろんな制約とか決まりごとがある中でいかに遊ぶかって、けっこう日本的な遊び方だと思うんです。お寺っていうのもなんで町の中にあるのかもよくわからない現代社会の中での身近な遊びの部分っていうんでしょうか。そういうのってけっこう大事だと思うんですよ。

「かかりつけのお医者さん」がいるように、「かかりつけのお坊さん」がいてもいいと思いませんか。



[取材日:2006年11月14日14:00-16:00@光明寺/インタビュー・文:高野公三子]


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