2006.12.08
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菊地成孔/Kikuchi Naruyoshi インタビュー

音楽家/文筆家/音楽講師

むせび泣くサックスの魔法にかかっていた幼少期

千葉県の銚子市という関東最東端に観音町という歓楽街がありまして、東京でいうと浅草がいちばん近いと思うんですが、観音寺を中心に浅草の周りに新宿と赤坂がくっついているような、地方都市だと必ずありますよね、ギュッギュッと寄せたような町が。浅草より狭いパノラマ歓楽街みたいなところがありまして、そこのど真ん中で生まれました。1963年なので、東京オリンピックの前年でありキューバ危機の翌年です。ビートルズがデビューした辺りの年ですね。当時の日本の音楽状況っていうのは演歌かムード歌謡。今でいう昭和歌謡と呼ばれているものの黄金期で、カラオケがないかわりにジュークボックスが山程ありました。

ふつうの学童が幼稚園、小学校を通じて遊びに行くのは、児童公園とか近所の友だちの家というところだと思うんですが、僕は歓楽街に家があるもんですから遊び場は観音寺とか神社。その裏でイタズラされたりとか甘酸っぱい思い出があったりするわけです。そういうことがまかり通る時代だったんですね、昭和30年代後半というのは。開店前のスナック、クラブ、飲食店がメインの遊び場になりますし、アウトドアといっても、やはり賑わう前の歓楽街で、スナックなんとかって書いてある看板をハードルにしてポンポンと飛び越えたりして遊ぶわけです。バーテンさんが仕込みしてるところで遊んでると、カウンターの上にでっかい柿ピーの瓶があったりして、これがおやつになる。今でいうチャームと呼ばれている小皿菓子ですね、それを子どもはガーッとつかみ放題。コーラなんかも自動販売機からガチャッと抜いて、ほんとは飲んじゃいけないのに掠め取ったり、バーテンさんにもらったり。

聴く音楽はムード歌謡。もちろん、テレビのアニメ番組の主題歌だ、アニメと言わず仮面ライダーの主題歌だ、天地真理なんだって、僕と同世代の人が全員共通、共有として持っているオンタイムのサブカルチャーも入ってくるんですけど、あんまりリアルじゃなかったですね。強烈じゃなかったというか、お茶の間の平和がなかったからだと思うんですけど。

僕に音楽の魔法みたいなものがあるとしたら、それを植えつけたのは当時の歌謡曲とかアニメソングの類じゃなくて、開店前のスナックで聴いていた、今昭和歌謡と称されているムード音楽たちですね。それには例外なくイントロにサックスのむせび鳴きがあって、後歌えっていって、間奏になったらまたむせび鳴き。そんなのが大体多数を占めてたんですよね、当時は。サムテイラーとかね。

近所にはストリップ小屋もありまして、そこに出前に行くと、今でこそストリッパーさんはきれいになりましたけど、昭和38年の地方の港町のストリッパーさんていうのは怪物めいた人がほとんどで、そんなこと言うと失礼かもしれませんが、そういう人たちにかわいがられるわけなんです。もうそのかわいがられようといったら、一生あんなにかわいがられることはないんじゃないかというぐらい。

私は、今でこそ貧相ですが当時は美少年で、幼稚園に上がる前からませた子どもで、近所に出前にバイトに行くんですよ。小さい子どもが届けると喜ぶんですよね。菊地の家に出前を頼むと、成孔くんっていう小さい子が出前に来てとってもかわいいんだと。子どもなのにちゃんとハキハキとてんぷら定食4つで1,200円です、なんて言うし、しっかりしてるし顔もかわいいしってことで、界隈での天使です。

八百屋のおばさんに頭なでられたりするのは序の口で、ホステスさん、一番強烈なのが今でも忘れられないストリッパーの楽屋ですけど、行く度にお菓子は山のようにくれるし、なでられるわ、さわられるわ、頬ずりされるわ、寂しい人たちが多いので。ある種狂ったような寵愛のされ方を刷り込まれたまま大きくなりましたね。1960年代の港町でのことです。

幼児教育にはいろんな人の会話を聞かせるのがいいと思うんですが、僕は当時、店番もしていたのでいろんな人の会話、いろんなテクニカルタームが飛び交うわけじゃないですか。子どもの脳で聞くと素晴らしい咀嚼力で、漁協とかね、公定歩合とか、労組とかね、いろんな言葉が否応なく入ってくるわけですよ。毎日聞いてるうちに意味付けされてきて、きっと外国語勉強するみたいに日本語を勉強したんだと思うんですが、小学校入学時の段階で活字も読めてこの子は天才じゃないかって言われてました。

友だちの学童はやれ紙芝居屋が来たと言ってはウヒョーって飛び出して行くんですけど、僕はテレビのニュース見て、お、ビートルズが解散するのかとか、これは一種のユースカルチャーの終わりだなとか思ってたんですよね、その頃は。カストロはこれからどうするんだろうっていう気分でした。まあそれは後から捏造したものだと思いますけど。

博物館だった兄の部屋

僕には16歳離れた兄がいて、小説家の菊地秀行さんっていうんですけど、僕が3歳のときには19歳。彼は大学を出ているので、その頃はもう受験の為に上京して実家にはいなくて、僕が物心ついたときには兄貴の部屋は空き部屋でした。小説家になるような人ですからオタク第一世代というか、物質主義のアタックを戦後に最初にくらった世代ですよね。今59歳ですから全共闘ど真ん中。ちなみに彼はノンポリで闘争は一切しなかったそうですが、外国映画とかが好きで、50年代中期から60年代初期、中期にかけてのユースカルチャーの重要なものがいっぱいあったんです。僕の実家は典型的な文化住宅でしたけど、そこはまるで図書館みたいな博物館みたいな場所。音楽もその部屋で初めて聴きましたし、小説もその部屋で初めて読みました。

16年ズレてるから、友だちがドリフターズでも僕はクレイジーキャッツ、友だちは天地真理でも僕は園まり。学校では誰とも話は合わないっていうか、ユースの話は合いませんでしたね。ただ近所に行けば同じ歓楽街の息子たちがいて。また、ホステスさんの娘たちはおしゃまさんなんですよね。あの頃いっしょに遊んでた訳ありの、苗字も定かでないような、どこの子だかあんまり言っちゃいけないよみたいな子もいっぱいいたんですけど、その妙に色っぽい小学生の子とか忘れられないですね。

ただ僕がその歓楽街と兄の部屋にある種淫するというか、中毒みたいになって執着してた時期はそんなに長くなくて、中学生になって色気づいてきた頃に、歓楽街とか嫌じゃないですか、逆にね。世代的にオシャレになっていく時代ですから。

ステレオセットの音楽という美的初体験

中学の入学祝いに何か買ってやると言われて、ステレオセットか8ミリカメラかどっちかだということになり、僕は8ミリカメラを買うつもりだったんです。というのは僕の実家の両脇が映画館だったんですよ。右隣が日活館で左隣が東映館。ちょっと歩けば大映もあったし、松竹もありました。映写技師さんのところにも出前に行ってて、やはり非常にかわいがられて。映写技師と子どもが交流する映画あるじゃないですか、「ニューシネマパラダイス」。映写室でこっちから映画を観せてもらったりしてるうちにすっかり映画ファンになったんです。映画館ファンかな。フィルム自体が好きっていう感じになってて。だからその頃は映画監督になりたかったんです。

しかも、中学校になる頃に、PFF、ぴあフィルムフェスティバルっていうやつができて、日本の自主映画の最初のムーヴメントが来るわけですよ。ここらへん年代が定かじゃないんで、2、3年のラグがあるかもしれないけど。8ミリカメラ入門みたいな本も読んで、すっかり映画監督になるつもりだったんですけど、猛追してきたものがあって、それがステレオセットだったんです。

兄の部屋にSPのいわゆるポータブルプレイヤーがあったんです。それで初めて聴いた兄貴のコレクションで、もう失神するぐらいの感動というか、音楽を聴くっていうことが、こんなに身体的な快楽があるんだっていうことを知り、ずっとそれで聴いてたんですけど、ある日電気屋さんに行ったらステレオセットがあって、当時流行ってたニューミュージックの類で、今聴くと音楽的にはどうでもよかったんですけど、とにかく音の良さにびっくりして。映画は映画館で観てたし、テレビもけっこういいテレビで見てたたんですけど、レコードをいいステレオで再生するっていう経験をして、この世の中にこんなに素晴らしい美的な経験があるのかと、ステレオセットの中に神様がいるんじゃないかという気分になって、打ちのめされて。それでぐらついたわけです、8ミリカメラから映画監督へという道が。

音楽家になろうとは思いませんでしたけど、とにかくステレオが欲しい。悩みに悩んでステレオを買ったんです。そこから中毒みたいに、エアチェックをしては音が美しい、レコード買ってくれば何を聴いてもいい音で、ヘッドフォンで聴くのと映画で聴くの全然違うし、もう気が違ったみたいになって、まあ音楽狂ですよね。

で、クラシックを聴き始めた。歓楽街でナスティだったんでしょうね、きっと。かっこよくて高尚でクール、シティみたいなね、AORとか、メロウな感じに憧れて一気にそっち方面に行くんですね。中学、高校、市民オーケストラでもクラシックのファゴットっていう楽器をやって、自宅ではジャズやボサノバ、AOR中心みたいな。とにかくナスティじゃないもの、ナスティじゃないものってなっていったわけです。

オシャレでニートな80年代がやって来た。

在来線で2、3時間もすれば東京ですから、原宿に遊びに行ったりしましたよ、竹の子族を見に。それこそ今住んでる辺りですけど、紀伊国屋で本でも買おうって丸の内線に乗ったら、初めて電車の中でウォークマンしている人を見て、これが東京だって思いましたね。

『メンクラ』とか『ポパイ』、カタログの時代です。『なんとなくクリスタル』も高校生の時ですからね。ストレートど真ん中の剛速球が腹に当たったみたいな感じで、なけなしの小遣いでコムデギャルソンを買いに新宿の丸井に行くというオシャレな80年代ライフが始まるわけです。

この間、歓楽街育ちということはずっと人に言えないこととして。俺はオシャレだ、みたいな感じでずっと抑圧されていたわけです。ゲロ拭いたりとか、正体のわかんないようなホステスに頬ずりされたりとかの記憶も全部無し。オシャレでニートで、ニートって今のニートじゃないですよ、かっこいい方のニートです。

大学に入学したんですけど、オリエンテーションの日に具合悪くなって辞めてですね。当時から軽く具合が悪かったんですね。あれが人生で2度目ぐらいの発作だったと思うんですけど。辞めて音楽学校に入りますって言ってサックス買って。バークリーメソッドを教える学校に入ったんです。

それが83年、20歳になった年です。CDと今でいう打ち込み音楽が誕生した年でもありますが、フュージョンが流行ってた時代です、スクエアとか。めちゃめちゃ聴いてましたね、電子音楽。その頃僕はディスコがものすごく好きだったんで、田舎のディスコでかっ飛びまくってました。YMOはカンフーディスコ+クラフトワークだと思ってて、今は誰が見てもそうですけど、あんまりテクノ文明がきたとは思いませんでしたね。

一方、当時ニューアカブームっていう難しい本を読むのが流行って、片っ端から読んでましたね。『チベットのモーツァルト』とか『構造と力』とか、翻訳で読めるバルトとか。アニメもマンガも流行ってたんですけど、どういうわけだかあんまり読まなかったですね。ファミコンはやりましたけど。たぶん、兄貴の部屋に漫画がなかったからだと思いますね。

あとはもうNHKの歌謡昭和史といっしょです。インベーダーゲームやって、DCブランド、竹の子族、なめ猫、ノーパン喫茶も行きましたし、それこそ今住んでるうちのすぐ近所ですけどね。サーフィン系も聴いたし、山下達郎も聴いたし、ノイズミュージックもクラシックも、ジャズも聴くしっていう、とてつもない雑食な感じ。ディスコも、月曜日はツバキハウスにニューウェーブの格好で行って、木曜日は赤坂のMUGENにゴルチェのスーツ着て行ってブラックミュージックでかっ飛びまくると。

当時はニューウェーブの人たちとブラックの人たちが対峙していたんですが、自分は脱両俗だって言ってました。ようは中途半端ってことなんですけど。髪型をアフロにしてしまえば、もう俺はMUGENに準じる、テクノカットにしてしまえば俺はツバキハウスに準じると明確なんですが、僕はデップでたてればニューウェーブのヘアにもなるし、バイタリスでオールバックにすればソウルバーに行けるっていう、適当で中途半端。とはいえ踊り狂ってましたね、毎晩毎晩。

今と違って当時は、大きくUK中心のニューウェーブと、アメリカ中心のファンク、ロックしかありませんでしたからね。僕はロックはその当時から全く聴かなかったんで、ダンスミュージックとして、ニューウェーブ、ポップス、ファンク、R&B、ブラックを聴きたかっただけなんです。映画が好きで、ディスコが好きで、映画の中に出てくるグランドキャバレーが好きだった。白木万里さんが踊ったりとか、ストリップも本当に好きでしたね。

仕事はチャラくても金がガポガポ入ったバブル時代

80年代というのは仕事がすごくあった時代で、家内は当時、赤坂でチーママやってたんですけど、まあこれが馬鹿げた額を稼いでくるんですよ。僕も音楽学校に通いながらバックバンドの仕事を始めて。グラビアアイドルみたいな人がシングル1枚出すと、今だと秋葉で握手会して終わりなんですけど、当時はすぐに全国ツアーに回る。たとえば、鳥越マリさんがオールナイトフジの司会やってて、シングル出して、それしか持ち曲がないんですけど、バックバンドといっしょに全国ツアーっていう時代。雇用が腐るほどあったんですよね。鳥越マリさんのバックバンドやってました。江口洋介さんのもやってた。他にもとんでもない人のをやってましたね。そもそもアラジンのバックバンドもやってましたからね。

バックバンドは業界的にはバイト扱いで、スタジオミュージシャンになって初めて一流としてみなされるんですけど、とにかくバックバンドは楽しいわ、金は入るわ、インチキな仕事ですよ。浮かれてたんですよね。爆発的に収入があって、家内の収入と合わせるととんでもない額になっちゃう。でもどういうわけか変な倫理観が働いて、住んでる部屋は木造モルタルだったんですよね。六畳一間のモルタルを今で言うリフォームみたいにして、オシャレに住むみたいなのが当時流行ったんですよね。ブラックライトとかで光らせたりして。恥ずかしい。小さい冷蔵庫買ってペンキで黒く塗ったり、ちょっとオシャレな感じにしようかなと。今で言うところのカフェ空間みたいなね。

コタツの上に札束置いて、彼女の出勤が夜じゃないですか。上からわしづかみにして、ちょっとMUGEN行ってくるわとか言って出かけてた。戦後の経済成長が頂点に達した狂った時代ですよね。
毎日楽しくてテレビもおもしろいし、プロレスもおもしろいし、ニュースもおもしろいし、漫才ブームもあったし、何もかもおもしろくて寝る暇ないなっていう。インターネットも携帯も無かったけど、仕事はもうチャラい仕事を適当にやって金はガポガポ入るし。飲めや歌えや遊べの時代でそたね。

プロのサックス吹きとしての初仕事

そんな浮かれたエイティーズも半ばの85年のある日、フィフス・ディメンションっていう70年代に「アクエリアス」という曲でグラミー賞を取った名バンドがいるんですけど、85年にもなるともう落ちぶれて懐メロになってて、何やってるかっていうと世界中の米軍ベース回り。フィリピンの基地から横須賀のベースに移動する際に、テナーサックスに欠員が出たんで急遽、業界用語でトラと言うんですが、代わりにやってくれる学生はいないかって、学校でおふれが出たんです。横須賀の基地に朝の6時集合で、終了が夜中の2時か3時だったと思うんですが、それで1万5,000円っていう、当時としては逆の意味で破格だったんでプロはやらない。僕もタクシー代にもならないじゃんっていうイメージでしたが、プロのステージだし、米軍ベースなんてちょっと行ってみたいじゃないですか。学校の先生にもおまえ行けって言われて。ドサ回りのバンドのトラぐらいは出来るだろうから経験してこい、って。それが最初に僕がお金をもらった仕事です。22歳〜23歳ぐらいですかね。

その後、山下洋輔さんに声をかけてもらい、いっしょにやり始めたのが86〜87年ぐらいかな。今堀恒夫さん主宰の「ティポグラフィカ」とか大友良英さん主宰の「グランドゼロ」っていうバンドにも参加し始めたっていう感じですね。山下洋輔さんにはかわいがってもらって、結果的には7、8年はいっしょにいたかな。その間、ヨーロッパをサーキットしてました。あの人の下に付いてると何ヶ月も外国行くんですよ。だから80年代末〜90年代のはじめはタダで外国に行ってましたね。ベルギーだ、ドイツだ、オランダだ、フランスだと飛び回っては東京の「ピットイン」とかで自分の演奏をしたり。

でもこれで天下を取ってやるとか、メジャーデビューしてやるとか全然思ってなくて、ただ遊びの延長で好きな音楽をやってただけ。好きな人が聴きに来てくれればいいし、赤字でも何でもいいって思ってた。どうせ金はバックバンドで儲かるんだからって思ってた。ただ、楽しくやってはいましたね。今で言うロハスみたいな感じ、全然違うか(笑)。
オーディションでスカウトした現役OLの
岩澤瞳とのポップデュオ、SPANK HAPPY
第2期のアルバム『Computer House of
Mode』(キングレコード/2002)

スパンクハッピー結成第1期

ずっとあのまま遊んでても良かったんですけど、92〜93年になって「スパンクハッピー」というバンドをやったりとかするんですよ。たぶん、バックバンドでいくらでも金が入るんだ、バイトで遊んで暮らしていこうっていう気持ちが薄れてきたんでしょうね。それが93年。僕も30歳になって自分の音楽みたいなことを意識し始めたんじゃないでしょうか、あんまり憶えてないですけど。

なんか、その後に流行ることがやりたかったんですよね。それでちょっとお金を儲けようっていうね。ジャズやってた身からすると意外かもしれませんが、ポップスがやりたくなったんです。作詞も面白いなって思ってた時期で、音響系だとかヒップホップのリズムだとか、後に90年代にでっかいムーヴメントになることを予測してましたし。って言うとすごいことみたいだけど、たぶん多くのクリエイターの人は予測してたと思うんですよね。

でも、それが僕はあんまりうまくやれなかった。不恰好なまま早く出しちゃったみたいな。急がなくてもいいのに料理を急いで作っちゃって、まだ腹減ってないのに出しちゃった上に、よく出来てないみたいな感じ。リリースしても全く売れないっていう状況が訪れた。カルトとか言われ出して。逆の意味で天才とか言われ出して。早すぎたし雑だった。逆に変な周到性があったりして、懲りすぎちゃったりとか。うまく出来てなかった。まあそれも今となっちゃ楽しい思い出ですけどね。
菊地成孔名義初のジャズ・リーダー・
アルバム『Degustation a Jazz』(イ
ーストワークスエンタテインメント/
2004)
11月に横浜のMotion Blueで開催された
ライブ。

90年代、「終わりなき日常」の通過儀礼

世の中も気づいたらすっかりバブルが崩壊し、いわゆる「終わりなき日常」の90年代がやって来た。これはキツいなって思いましたね。僕自身は、90年代文化から隔離されたところにいたんで、あるとき気が付いたら若い人がこんなになってたっていうことに遅まきながら気が付いたんです、外に出たら夕方だったみたいな感じで。これはカジュアルな鬱病が流行るだろうなってすぐ思いましたね、やがて爆発的に人数増えるだろうなって。

僕自身は、90年末に致死性リンパ結節炎に冒されて生死を彷徨ったんですがなんとか完治。35歳のときでした。通過儀礼でしょうね。嫌でも下されるんですよ、通過儀礼はね。体に来た通過儀礼は比較的、官能って形でうまくやっちゃうんですよね。僕、拷問に強いタイプだと思いますね。マゾヒスティックっていうか。ひどい目に合ってもだんだん気持ちよくなってっちゃう。夢のようになって、ハープとか聞こえ出してきちゃって。だから、この身体に来た第1波体はなんとか乗りこえることができたんです。

突然、時代の鬱の環境に放り込まれて、劇症的な反応を起こしたっていうか、まとめてどっと来ちゃったわけですけど、治ってくると脳が働くじゃないですか。もっと自分の音楽をちゃんとやろうっていう前向きな気持ちになったんです。リーダーのバンドをやったことなかったんで。バンドデビューするためには事務所に入らなきゃダメってことで今のところに入った。祭りが終わっていよいよ自分のことしようっていう、作品上の通過儀礼が最初に起こったんでしょうね。

幸い僕は音楽学校出てるし、仕事が出来たんで、事務所にとってはバンドが売れなくてもCMの仕事とかさせると金が回るじゃないですか。僕らもただの厄介者じゃまずいわけで、職内っていうんですけど、一生懸命やってましたね。

98年、デートペースペンタゴン・ロイヤルガーデン(DCPRG)というジャズバンドを立ち上げ、ほぼ同時期に、第2期スパンクハッピーを立ち上げ、今度は俺がリーダーだっていう風にしたんです。それぞれ、メジャーからファーストアルバムを出すまで漕ぎ着けたんですけど、いわゆる今でいうサクセスとは程遠い状態で、サクセスしようっていう気もなかったかな。まだCM音楽とかもやってましたからね。ボーダーフォンの初期のCMって僕がやってるんですよ。

でも、やっといい調子になってきたと思っていたら、2002年、第2波が不安神経症としてやって来た。これはきつかったですね。こんな苦しいことがあるのか世の中はって思いましたね。80年代は本当に楽しいばかりで何の不安も無かったもんね、そりゃまとめてツキがおちるわな、これはっていう思いもありましたね。

精神分析と整体を1、2年やって、2004年ぐらいから元気になってきた。整体は今でもやってますけど、その頃初めて体の歪みが心の歪みと繋がっているっていう、今では当たり前の身体論を実感して、自分の体をコントロールできるようにしていったんです。気功と精神分析、つまりは肉体と言語という両方を同時に通い、治まっていきました。それが39歳のときです。

翌年の40歳には父親が亡くなったんですけど、39歳、40歳の連打で、お蔭様でとしかいいようがないですけど、通過儀礼をしたなと思いましたね。やっとくべきですよ、通過儀礼は。助かったなと思いましたね、ちょうど40歳にして立つようにメカニズムがそうなってたんでしょうか。なんか区切りだなあと感じましたね。
文筆家として活躍するきっかけになった
初の単行本『スペインの宇宙食』(小学
館/2003)
『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール
 〜世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の96日
間』(小学館/2004)

循環性とポリパーソナリティ

自分が変わったんでしょうね。たとえば、いまだに僕と同じ年齢で、CMやアイドルの演奏、スタジオミュージシャンとしてお金を稼いで、それで車買ったり遊んでるっていう人はいっぱいいると思うんですよ。ある種よく出来たライフスタイルですよね。ビジネスをやって余暇を楽しむと。僕もそういう時期はありましたけどね。自分で音楽やるけどなんかパッとしない時期も終わって、菊池成孔としてのソロアルバムでやるんだ、本も書くぞっていう状態に今は入ってるわけですけど、それって「循環性」のものに過ぎないと思ってるんです。

だから、またいつか、スタジオで稼いで遊ぶっていう時代がきたらおもしろいなって思ったりするし、映画音楽とかもやって、1年分働いて後はずっと遊んでますとかね。「循環」というかただ「発展」していくのかもしれないけど、そういう風に変わってく、いわゆる発達心理っていうかね。

あの時代に「自分探し」とか、いろんなことに悩んでた人もいたけど、今の1,000分の1だと思いますよ。あの時代に青春を費やしちゃった、ロリコン犯罪の宮崎勉や宅間守、オウムなど、ヤバい人たちを輩出した世代ですよね。あまりに大人になるのが遅かったっていうか、不安だとか、必要なことですけど抑鬱的な感性とかいうのも、虚勢されたままお祭りみたいにして20代を過ごしちゃったという、ある種の被害とも言えるし、ある種の恩恵とも言えるような時代を過ごした世代だったと自認していますね。

昔、「マルチ人間」って言葉があって、他業種に及んで活躍している人のことなんですけど、例えば糸井重里さんもそう言われてて、そのとき彼は、「誰だってマルチ人間だ、小学生だって国語、算数、理科、社会、体育、音楽、保健ってマルチじゃん」って言ったんだけど、本当にその通り。僕もよく何でもやってますねって言われるけど、スポーツやってないでしょう、お芝居も彫刻もやってない。CDと本しか出してないんだから、こんだけのことしか出来ないのか自分はって思いますね。

菊地さんは自分の作品を解説して、音楽家なのに言葉で語ったりしていてすごいですねって言われるんだけど、誰だってやってますよ、音楽だけ出してひとことも語らないミュージシャンがいたら数えてって言いたい、いないんだから。ブログを見ていれば一目瞭然で、誰でもやってるんですよ。そこにはつまり、僕自身が何をやってても、いくつかのことを同時にやってるような「種」が、今やってることの表情じゃなくて、根本に植えられてて、最初から分裂してるってことだと思うんです。

小さいときから何かを往復してるんです、ずっと。青春期はディスコも往復したし、忙しいとか忙しくないとか、その状態が倫理的にどうとか、芸術的にどうとかっていうことはひとつの個性でしかない。別に怒ってないのに怒ってる人とかいるじゃない。それと同じように、その人の単なる属性として、何やってもいろんなことを忙しくやってる人に見えるだけだと思うんですよ。労働量が僕より多い人は絶対いるはずだし、音楽やって本出して店やってDJやってっていう人はいくらだっていますよね。そこから見たら僕なんて少ないはず。でも、いっぱいに見えるっていう感じは、つまり、根本にある多層性ですよね。ポリパーソナリティというか、それが病になればいわゆる多重人格なんですけど。今やハンドルネームいくつも持って、いろんな人格でミクシーにいるのは当たり前っていうね。

自分のやってることがそんなに時代を打ってて素晴らしいとはあんまり思わないんですよ。もし何らかの時代にアジャストする側面があるとしたら、来るべきポリパーソナリティの時代にね、俺はDJやるときは、例えばやらないけどNARUとかいってさ、DCPRGで演奏するときには菊地何某で、ソロをやるときは全然違う別名が付いてたりしてね。名前を変えて、あるときはDJ.オズマで、あるときは氣志團の綾小路某だと言ってしまえば、変則制のユニットですよね、完全なコンセンサスじゃないですか。バンド2つもやってて大変でしょうってあの人に言わないでしょう、誰も。高田総統と高田統括本長とかね。全部同じ肩書きで、菊地成孔個人でやるから、いっぱい抱えてるように見えるっていうトリック、まあトリックじゃないですけどね。

ポリパーソナリティは絶対問題になってくると思います。それは音楽だとか芸術だとかを超えて、人類文化として。それをむき出しにしてるのがテクノロジーですよね。ハンドル2つ持って、使い分けてるんだ、へっへっへって大事件でも何でもないですよね。全然日常的。自然にそうなっちゃう、気が付いたら4つになっちゃってさとか、ある事情でとか。ナチュラルな中で4つになってたっていう。

僕の音楽が特別優れてて、その時代にアピールしたとかいうと、まったくダメとは言いませんけど、ちょっとしたある種の趣味の人にはわかるわかるっていう程度なだけなんですよ。なんか時代の寵児とかかんとかって言われるっていうのは、ポリパーソナリティっていうことに対してある程度自覚的だということ、社会や個人が抱える病と生きるってことに関して自覚的だということなんだと思うんです。それ以外特に何も無いですよね。
現代音楽とラテンラウンジを繋ぐ
ストレンジ・オーケストラ「ペペ・
トルメント・アスカラール」による
アルバム『野生の思考』(インディ
ペンデントレーベル/2006)
UAとのコラボレーションアルバム
『cure jazz』(ビクターエンタテ
インメント/2006)
冨永昌敬監督の長編映画『パビリオン
山椒魚』のオリジナルサウンドトラック
(インディペンデントレーベル/2006)

「イグザイラー」としての宿命を背負って生きる00年代

あのときに8ミリカメラを買ってれば、今頃映画監督かサラリーマンですよね(笑)。映画はずっと無理だと思ってたんですけど、最近は撮れるんじゃないかな、撮りたいなと思うようになってきました。いつの間にかアルバム作ってるんだか、映画撮ってるんだかわからないような気分っていうか、自分が監督で、スターがいっぱいいて、カメラ回しっぱなしにした後に編集室で編集するっていう意味では同じかなって。だったら画が付いてる方がいいんじゃないとか、物語があった方がいいんじゃないかな、とかね。

音楽やってるときにあるゆるぎない孤独感とか淋しさが、映画撮ったらなくなるんじゃないかな、という期待もどこかにあります。適正な職業に就いたっていうか。誰かが何かやってる間は何か違和感があったんだけど、ある日突然この仕事したらぴったりはまったっていうこともあるじゃないですか。パリス・ヒルトンがCD出した時も、ひどいものが出来るだろうと思ってたら、すごくいいアルバムが出来ちゃって、最初からやってればよかったじゃんって。今はもう誰も、昔のあのやばいパリス・ヒルトンのことは忘れてて、すっかりポップスターだと思って見てるよね。そういうことが起こるのが世の中で、それがポリパーソナリティと関係あるわけなんですよ。自分の理想像が現実とそぐわない何かに進んでいっちゃって、ある程度運行しちゃうんだけど、本当の姿が待ってる。でも、それも本当の姿かどうかはわからない、ただ往復するだけ。

職業としても、本を書いて作家かっていうと音楽家で、音楽家かっていうと本も書いてて、両立してるんじゃなくて往復してるんです。今は新宿の歌舞伎町にいますけど、あそこは人の住むようなところじゃないですもんね。もちろん、歌舞伎町に骨をうずめる覚悟でいるわけじゃなくて、ラスベガスのホテルか何かに出張してる気分なんです。所属をしない根無し草な感じっていうか、それが自分の感じだと思ってて。音楽をやってるっていうこと自体にある種の根無し草みたいなものがあって、別にそれは悪いことじゃなくて、いいことで。流れ者の良さがあるんだよ、色っぽいんだよっていうのがあるのかもしれないですよね、人から見たら。なぜか、映画撮るっていう話になったら、ひょっとしたらそういう気持ちが少し軽減されるかもっていう気がしてるんです。

自分がいる場所はここじゃないんだろうなっていう、所属に対する違和感は常にありますね。だって水商売のど真ん中で育った自分が異物だったって子ども心にわかるもん。他の人じゃ経験出来ないエロチシズムとかがあるわけじゃないですか。それはもう自分の人生なんで、やり直しがきかないので、既にインストールされていることとして作品の成果として出すしかないんですが。ここにいるべきじゃないっていう、じゃあ向こう行くかって、行ってみてもやっぱりそこにいるべきじゃないっていう。どこまでいっても落ち着かなくて、「イグザイラー」としての感じっていうのがありますよね。

歌舞伎町に住んで3年になるんですが、次に引っ越すとしたら品川に住みたいですね。今ちょっと港湾の感覚が足りてないので、海が近くて駅も近いところっていったらそこらへんかな。



[取材日:2006年11月21日@イーストワークス会議室にて/撮影:阿部智将/インタビュー・文:高野公三子]


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