2004.10.08
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黒沢伸/KUROSAWA SHIN インタビュー

金沢21世紀美術館・学芸員(エデュケーター)

金沢21世紀美術館・学芸員1959年12月19日東京生まれ。血液型B型。洋画家で絵画教室を開く父のもとで、子どもの絵画コンクールなどで数多くの賞を受賞する。東京造形大学絵画科卒業後、東京芸術大学大学院美術研究科に進学。高校生の頃から続けていたバンド活動に夢中になり、同大学院修了後もさまざまなアルバイトで生計を立てる。
バンド解散を機に89年「水戸芸術館現代美術センター(茨城県水戸市)」の立ち上げに参画。学芸員として美術館の新しい在り方を提示し、日本の現代美術界に新風を吹き込む。
97年同美術館を退館。東京に戻り約1年間フリーランスのキュレーターとしていくつもの展覧会の企画を手がけた後、99年、「金沢21世紀美術館(石川県金沢市)」の学芸員として就任。約5年間の準備期間を経て、同館は04年10月9日午後1時に開館。同建物の一部として設置される作品群の解説やコミッションワークなどを担当する。

プールの水面が境界線になり、その
地上と地下で人と人が出会うことを
設定した作品(レアンドロ・エルリ
ッヒ/73年アルゼンチン生まれ)

45万人の市民になにが起こるか!?

石川県はその立地的な要因からある意味孤立しているのかもしれません。その中でも金沢はちょっと特異な小さな都市。そこに住む約45万人の人口に対して何が起こりつつあるのか。金沢21世紀美術館の誕生は都市開発の視点からみてもとても注目されています。

いろいろな条件が重なりあった中、10年に1度の割合で生まれた施設だろうといわれています。例えば大阪や京都といった大都会で、同じような美術館を、同じような規模で、同じようなお金をかけて同じような活動はできないでしょう。これまで美術館というものを持っていなかった市が、いろんな意味で「活動」するようになり、それぞれの目的は違うんですが、ひとつのエネルギーを「デザイン」し、行政として汲み取りながらつくられてきた。それはやはりここの街だからこそ出来たものなんだと思います。

生意気だった子ども時代

僕と美術の出会いは生まれたときにまで遡ります。家に小さいアトリエがあり、いつも絵を描いている親父がいた。絵画教室みたいなものもやってたので、普通にそこに混ざって自分も絵を描いたりしてました。妙にうまくて、子供のコンクールとかでもよく賞を取りましたね。でも、自分ではたいした事しているつもりがないので、というか生意気だっただけなんですが(笑)、賞品もらうのは嬉しいんだけど賞とったことは嬉しくなかった。妙に絵に関してませガキでした。

なんとなく図工が得意だったり、美術の成績も悪くない。特別絵描きになろうと思ったこともかったんですが、結果的に算数が得意じゃなかったから、消去法で美術の方にいくかみたいなノリで美大に進学することになったんです。
レアンドロ・エルリッヒのプールを
背景に。他にジェームス・タレルの
空間作品やフェルナンド・ロメロな
ど建物と一体となったコミッション
・ワークがもりだくさん。

「もの派」の否定からバンド活動を選択した青春時代

大学に入ってみるとちょうど「もの派」の全盛期。60年代後半から70年代全般にかけて展開された戦後の日本の現代美術の大きなムーブメントだったんですが、70年代も後半になり80年代に入ると、ほとんど実質的には形式化してた。たとえば、物だけ並べればいいとか、砂を敷きつめればいいとか、もうぜんぜんつまらない。世間から見ると突飛で訳がわからない感じに見えるかもしれないんだけど、いかにも高尚で哲学的な感じとか思わせようという態度が見え見えでうんざり。つまんないなーと思ってた。

大学院に進学してからもアーティストや画家になることが将来の目標にはなりませんでした。もともとハードロッカーでバイク好き。きっかけは、中学の新入生歓迎会で一年上の先輩たちが演奏した「Hey, Jude」。たぶん、それが生でバンドを初めて観たんだと思います。へぇーって感動した覚えがある。生まれて初めて買ったレコードは「Let it be」。最初に買ったギターはジョージハリスンがバングラディシュのコンサートで使っていた白のフェンダーで、とまあそれはいいんだけど(笑)、それ以来、あの頃誰もが聴いてたクリムゾンとかをコピーして。大学はつまんなかったけど、バンド活動は愉しかったですね。

半分お遊びでやってたんだけど、大学出てからは遊びが高じてるみたいになった。「イカ天」とかなかった時代なのでライブハウスを転々としながら、職業高校のデザインの先生とか養護学校の美術の先生、美術系出版社のエディター、新聞雑誌のカメラマン、モーターショー設営の大工さんとかいろいろやりましたね。今でいうフリーターです。

でもある日、バンドの大黒柱だった人が抜けることになり経済状態がガタガタになったんです。その後ひとり抜け、2人抜けと結局空中分解状態になっちゃった。そんな時に水戸芸術館がオープンする、人を募集しているよ、という話があったんです。
プレイベントとして2002年3月に開催
された「子どもによる子供のための物
々交換市場」の第2弾『かえっこバザ
ール』(美術家藤浩志氏)。

「作品の墓場」からの脱却

僕は美術館は作品の墓場だと思ってたんで、美術館に勤めるなんて考えたこともありませんでした。大学院のときも担当の教官に「この単位を取れば学芸員の資格が取れるから是非取りなさい」と言われたんですが、一生するはずのない仕事の免許を持つ必要はないと確信してたので受けるわけがない。だから僕は未だに学芸員免許を持ってないんです。

水戸芸術館はそんな資格の有無を問わなかった。資格よりも才能豊かな幅広い人材を集めたかったんでしょう。水戸は美術館だけじゃない複合施設です。音楽のコンサートホールがあり、劇場があって美術館というかギャラリースペースがあって、ギャラリーの他にワークショップという謎めいたスペースがある。そんなふうに、いろんなものを混ぜこぜにするんだったら、面白いものができるかもしれないと思い勤めることにした。

そのころはバンドやりながら美術系の出版社でライター兼カメラマン兼編集者みたいなことをやっていて、いろんな作家のアトリエを訪ね歩くという仕事が多かった。アトリエには作品のプロセスが見えるだけじゃなく、原型というか作家の本能がある。インタビューをするから作家の人となりも分かり、その世界観の中で作品を見るから一目瞭然。ところが、感動していた作家の作品が美術館にポンと置かれた時、全くそういう世界観を匂わせず、ただ切り取られたものになってしまうことが多かった。美術館は作品の墓場になってしまっている。そんな淋しい経験がずいぶんありましたね。

一方でバブルがはじける直前にオープンした芝浦にあるクラブ「ゴールド」の集客がものすごかった。人をひきつけるもの、びっくりさせるもの、本当にこんなことがあってもいいの?!みたいなことを、人が、ハコがやれるんだという確信が持てたんです。美術館ももうちょっとそうであっていいはずでは!?水戸でやろうとしたことってそういうことだったんです。美術館のソフトそのものをもっと幅広いものにしよう。そういう思いから、わざと妙なことをやった。ふつうのことは放っといても他の人がやるからいいじゃないですいか(笑)。
新しい現代アートの発信基地として
90年にオープンした水戸芸術館。今
でもユニークな展覧会や企画で若者
にも人気

「水戸芸術館」という自由な装置

水戸芸術館の成功は、オープンした90年という時代性も影響しているかもしれません。イメージが増幅していくバブルの余韻みたいな独特なパワーがありました。

それと距離。東京から100キロという微妙な距離間があったと思いますね。適当に地方都市。東京の人にとっては遠いけど、通い始めるとそれほどでもない。離れてるからこそかえってちょっとしたことで目立っちゃう。でも、逆に水戸は目立ちたかったんですよ、街として。もともと水戸という街の中にそういう反発心があったんでしょう。とにかく、東京の専門家たちを驚かせろ、という目標があった。印象派を持ってきてどうのこうのじゃないし、美術館としてのコレクションもしない。となると、どうしてもビビットな現代美術に絞って活動していくのが一番ストレートでいいやと思ったわけです。

当時学芸に入ったなかで美術館経験者はたった1名。みんなある意味初心者だったんだけど、どういう美術館がいいのか、というイメージを持とうとしたんです。だからイメージした通りに進めようという柔軟さもあった。

ふつうの行政だったら決まっている枠組みを超えるようなことは出来ませんよね。たまたま最初に当時の市長さんが「行政は金は出すが口は出さない」という話をあちこちでしてまわった。同時に市の予算の1%を使うとも。条例でそうなっているわけじゃないから1%って単なる言葉の一人歩きなんですけど、それで行政側の人間もある意味口出しをやめたっていうのはありますね。

そこからです。いろんなものが重なって広大なフィールドと線路が出来上がり、目的地も明確になった。もちろん引かれた線路の上を走ってもいいんだけど、どうせなら同じスピードで横の砂利道をガタガタのジープに乗ってって、電車より早く行った方がおもしろかったりするじゃないですか。とにかく目的地に到着すればいい。そういう自由さがあったのも成功した秘訣だと思いますね。

現代美術の転換期は「1965年生まれ」から

また、ちょうど90年代に若い世代のアーティストがたくさん登場したこともキーになったと思います。水戸での最初のきっかけは森村泰昌さん。それから間島領一がいて、ヤノベケンジがいて…。いつも力入っているから比較のしようがないけど、こちらの力を瞬間的に加速させる、なんていうんだろう、元々ついてなかったはずのターボチャージャーを付けてツインカムに自分自身を改造してまで動かさなければいけないアーティストっていうのがいるわけですよ、つきあい始めると。こいつと一緒に仕事しようと思うと手抜けなくなる人っていうのが何人もいたんです。

とくに、1965年生まれのアーティストってかなり革命的な世代だと思います。ちょうど昭和40年くらい。その直前にいたのが村上隆がいるわけですが、その前後。世界的に見てもそうで、ダミアン・ハーストも1965年生まれ。それまでの時代の感覚にはついていく必要がなくなり、自分で違うことを始めちゃった、それ以外にはリアリティがないから他のことが選べなくなった世代。

僕は彼らと5-6年違うわけだけど、僕は他のこと選べてたんですよ、諦めて。「もの派」がイヤだっていって音楽と選べた。美術のフィールドの中では「もの派」が選べないけど、そうじゃないものを作ったら怒られちゃうから、だったらいいや、諦めて違うことやろう、っていう世代なんです。彼らは全然違って、怒られるとかじゃなく、自分はがこうなの、これしか考えられないのっていう、言ってみれば開き直りというか、いけしゃあしゃあと変なことやる世代。

水戸では、そんな時代が生んだまったく新しい作品を評価してきちんと位置付けるという活動も意識してやりました。ほんとうはギャラリーの仕事の範疇だと思うんですが、当時のギャラリーはやらなかっから。美術館がある種のオルタナティブスペースになっていかなきゃダメだっていう思いもありましたね。それで「ワークショップ」という単語を使った。便利だったんですよ、謎のものだったから。治外法権みたいなイメージがあったんです(笑)。
部屋に入ると天井から青空がぽっかり
と抜ける『タレルの部屋』。嵐の日を
体感するのもよし。

Aはクリアしたけど、BやCが出来ない不自由さを発見

89年に水戸に行って、90年のオープンまでの間にどんなことをやっていこうかっていうアイディアをだーっと書いたんです。いつもそういうことを考えていて、思いついたことはすぐメモる。タイトルとその心は、といったキーワードみたいなものをワンセットで100個ぐらいあったんじゃないかなあ。

97年の辞めようとする頃になってその表を改めて見てみたら、なーんだ、けっこうやったんだ全部って思いましたね。もちろん、まったく同じタイトルでやったわけじゃないですよ。そこでまとめたものは単なる思いつきだったり発想にすぎないから、そういうことを本気で考えているアーティストと出会わない限り企画にはならない。でもビビッと出会い、ちゃんと企画になっていた。

その頃になると他のいろんな美術館も若い人たちと一緒に仕事するようになってきてたし、美術館の頑なな感じもなくなり、いろいろと創意工夫するようになっていた。そういう意味では当初の目的は達成してたんですね、自分としては。

でも、人間は贅沢だから、今度は水戸では出来ないことは何なのか、何故それが出来ないかって思うようになってくる。当初予定になかったことを考え始める。でも必ずしもそこでしなければならないことでもないし。元々出来ないのには理由があるわけで、Aのことをしようと思って造った建物だったり組織だから、Aにはいいけど、BのこととかCのこととかを付け足そうとしても難しい。まあいろんな葛藤もありましたが、ここはひとつ、当初の目的であったAに関してはクリアしたんだからまあいいか、と思って辞めるわけです。
芝生の緑にスケスケの建物がみずみずし
い。気が付くと建物引き込まれてしまう!

「エプロン掛けてやって来る美術館」

僕は、美術館というところは参画してなんぼって思っています。クオリティの高いものを水戸市民に見せて欲しいという当初の市長の思いはそれはすばらしいコンセプト。しかし、それは観客が永遠に観客であるためのものであって、結局は観客として享受しているにすぎない状態なんです。それでは美術が自分のものになっていかない。専門家が専門的な料理を作ってどうぞ召し上がれ、おいしゅうございました、それはそれでいい。でも、一方で家では毎日ラーメン食っていればいいかっていうとそういうわけにもいかない。家に帰ってもある程度クオリティのいいお料理や自慢料理がある方が食生活としては豊かですよね。美術も同じ。もっといろいろな関わり方があってもいいと思うんです。

そのへんは、水戸でもかなり先手を取ろうとしたんだけど、組織の大きさとか、美術館、建物の形とか現代美術専門であるということが邪魔しちゃうわけ。もっとずぼらで適当な「エプロン掛けてやって来る美術館」っていうのが、今度の金沢21世紀美術館で挑戦していること。ある種の敷居の低さなんです。

ものすごく高級なものと、ものすごくどうしようもない洋服があるとするでしょう。何十万、何百万もするものもあれば、かたや数千円、数百円というものもある。大切なのは、どっちかじゃなくて両方いっしょに存在できるっていうこと。そこに壁を作らない。なだらかにずっと繋がっていけば自由に行き来できるようになるのにって思う。大事なのはその仕掛けなんです。
ライブラリーにはカラフルなエッグ チェアが
金沢21世紀美術館の誕生までをまとめた
本『21世紀のミュージアムをつくる』

唯一ある「敷居」はイデアルなものだけ

金沢21世紀美術館は、建物自体の敷居が低い。設計したのはベネチアビエンナーレ国際建築展で展示部門最優秀の金獅子賞を受賞した妹島和世さんと西沢立衛さん。地上1階地下1階。ちょうどパビリオンを並べて丸い屋根で覆った感じです。建物が丸い形をしていて敷地の3辺が完全に道路に面しているので正面がない。塀もなく、一面緑の芝生になっている。だから、「あ、芝生だ」と思って近づくと、建物が全面ガラス張りだからそのまま入っていけそうな雰囲気がする。ごくごくふつうのものの延長で繋がっているイメージになっています。

一方、今やアートの王道みたいなものはないと言われてます。「軸」っていうのかな、美術史でいうところのメインストリームみたいなものはもうなくって、いろんな主流が流れている。ですからそれぞれの作品や作家、表現に対する敷居は既に低くなっているというわけです。

そこで、あえてここ(金沢21世紀美術館)では、イデアルにメインストリームがあるとし、それらがなし崩し的に壊れていきかねないような外部との交流をイメージした。具体的には、真ん中が展示室の集団になっていて、その周辺に交流ゾーン。そしてその後ろというか周辺に完全なパブリックゾーンがある。展示室はものすごく専門的なものをプレゼンテーションし、一方で平気でそこに向かって誰もがアクセスできちゃう環境にしていきたいと思っています。

清い泉には魚は住まないでしょう。そのような清い水が真ん中から湧き出てくる、泉のように。周囲からは生活感ナマナマな泥水がそこに流れ込もうとする。そこにせめぎあいがあるわけです。どんどん混ざり合っていく。でも湧いてくる本当の源泉っていうのは絶対泥は入らない。逆流できないから。そういうイメージですね。

「敷居を低くする」ことに追いついてないのは組織ですね。ただ、なし崩し的に従来の姿を変えざるを得ないだろうなって思いますけどね。行政からするといいことじゃないのかもしれないけど、美術館の運営はいろんな人に手伝ってもらわなくちゃできないから。

今度市内の小中学生約4万人をここに連れてこようと思ってるんだけど、それには百何十人のボランティアが入る。もはや、ひとつのピラミッド型の組織の中にいるんじゃなくて、並列的に存在して、有機的に関係し合う仕組みを作っていかないと活動にならない。それがなければ展示もできないし教育活動もない。ボランティアの活動もないわけですからね。
オープン後は毎週末おおぜいの来場者
で賑わっている。地元の人はもちろん
のこと、東京や京都などからの来街者
も少なくない。

知識を超えて。

スペインのマヨルカ島っていうところにすごくかっこいい現代美術館があるんです。地中海の小さな田舎の島で、海水浴場から歩いて10分ぐらいのところにポツンとある。原美術館を2倍か3倍にしたぐらいの大きさなんですが、超かっこいい展示をしてるわけですよ、クオリティの高い。そこに水着持ってサンダル履きの家族連れが来る。水着姿ですっごいかっこいい展示を見てる。いいんですよ、それが。観光客にありがちな騒いで遊びまわったりするんじゃなくて真剣に作品を見てるんです。カッコイーとかすげーとか言いながら。

その印象があったから、金沢21世紀美術館に来ることが決まって何日か過ぎたある日、そのマヨルカ島の話を市長にしたんです。「サンダル履きで水着でちょっくらやってくる美術館。だけどものすごくかっこいい。そういうのいいと思いませんか、市長」って言ったんです。そうしたら彼はそのコンセプトを気に入ってくれたらしく、「サンダル履き」を「エプロン」に直して、よりわかりやすい表現に変えたんです(笑)。

普段着のまま八百屋に買い物に来てそのまま美術館に来てしゃきっと出来るのには観客としての相当な経験が必要になる。でも、21世紀だったらそういう観客があり得ると思うんです。また、そうやって近づいて来た人たちがボランティアやってみるとかアーティストと話をしちゃったとか、そういうことをきっかけにしながら、おいしい現代美術をおいしい現代美術として消化する、知識を超えて無意識に楽しめるようになっていくと、現代美術というか文化は本物になっていくんだと思いますね。


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