INTERVIEW
WHO'S WHO

赤荻 徹・洋子/Tetsu & Yoko Akaogi インタビュー

[2007/12/01]
atelier A主宰 赤荻徹・洋子

高校時代の部活は「東京部」!

徹:3年前に結婚したんですが、その時に、披露宴とかで配るために、子どもの頃からのふたりの成長を写真集としてまとめようということになったんです。知り合いのアートディレクターの瀬戸徹さんがデザインをしてくださることになり、だったらせっかくなので、青山ブックセンターで販売しよう、ということになり。実際にお願いして取り扱ってもらたんです。タイトルは「marriage」。どうせ売れないだろう、と思っていたら、結局20冊くらい、売れました(笑)。

僕ら夫婦は同い年で、僕は茨城、彼女は東京育ち。東京と茨城で、生まれた瞬間から2年くらい時差があるような感じが、その写真集を見ているとわかるんです。僕が茨城の自宅の庭で遊んでいる時、奥さんはすでに家族でハワイ旅行していたり(笑)。

高校時代の部活は「東京部」です(笑)。いとこが『スタジオボイス』の編集者をしていたということもあると思うんですが、僕も大好きで、毎号隅から隅まで読んでました。当時は、東京の若者はみんな『スタジオボイス』を読んでるんだって思ってましたね。自分も、そこからいろんな映画や音楽を知って。きっと田舎だからコンプレックスがあったんでしょう。大学で上京した途端、東京デビュー。まさに90年代真っ只中、ハジケちゃった時代ですね。毎日クラブに行きまくっていて、今思うとダメダメな毎日でしたね(笑)。


障害を持つ子どもたちとの“グッ”とくる感じは違う

バンドもやったりしてたんですが、大学3年から今も勤めている会社でアルバイトとして働き始めました。ゲンズブールやゴダールの映画配給をしている会社なんですが、とても自由な会社でしたね。ある映画を渋谷のパルコの映画館(シネクイントの前身)で上映することになり、そのプロモーションで、渋谷パルコでオフィシャルグッズを扱う小さなショップを設けることになり、店長を任せてもらったんです。毎日のことなので、そこで働く人を集めるのがたいへんで、そのためにクラブイベントを主宰したりして、実は、彼女(奥さん)とはそのイベントで出会いました。もちろん、その時はお互い友だちという感じでしたが。

実際はあんまり授業に行ってなかったんですが、大学は教育学科。もともと母親が養護学校の教員で、街でダウン症の子を見かけたりすると「まあかわいい!あの子どこの子かしら?」って言って駆け寄っちゃうくらい、バリアフリーな人で、僕も子どもの頃から、障害を持った子どもたちと過ごす機会には恵まれていましたね。だから、どんなに遊んでても、いずれは福祉の世界に行くんだろうな、自分が本来いるべきところはそっちだな、と思っていましたが、まあ、とにかく、そんなことを忘れるくらい毎日遊んじゃってましたね(笑)。

でも、だんだん、彼女と付き合うようになってからは、「福祉や教育の仕事に興味がある」っていうような話をするようになっていました。そうしたら、ある時、彼女が杉並区の区報に、ダウン症の子どもを持つ親たちがサッカー教室を始めるための手助けをしてくれる人募集してるよ、と記事を見つけてきてくれたんです。「そんなに興味があるならやってみれば?」って。それがきっかけで、「エイブルFC」というサッカーチームの活動を始めるようになったんです。僕はコーチです。2002年のことでした。

大人になってから福祉の仕事を志す人って、もしかしたら、そこを目指す理由をそのときに考えるんでしょうけど、僕の場合は、最初から障害と普通の境目がわからないような感じだったんです。ダウン症の子どもたちは、本当に人の心を楽しませてくれるんですよ。天性だと思いますね。だから、障害があるといわれている子の方が、僕らより優れたところがたくさんあるんじゃないかなって何度も思いますね。東京に来て、映画の仕事をして、夜遊びして、バンドもやって、それはそれで楽しいけど、やっぱり障害を持つ子どもたちと過ごす時の“グッ”とくる感じとは違うなって。熱さというか、みんな開放的で、パワーがある。「エイブルFC」での活動を始めてすぐに「これだ」っていう感じを思い出しましたね。


ダウン症の子どもと過ごした“濃い”時間

洋子:「エイブルFC」には私もいっしょに行ったんですが、彼の目が変わったのは、私にも分かりましたね。私は、彼とはまったく違う環境で育っているので、ダウン症がどんなものかということも最初はぜんぜん知らなかったんです。

徹:彼女は当時、アパレルメーカーで働いていたんですけど、もう洋服ばっかり買って浪費する日々(笑)。僕は今も映画会社で働いているけど、最終的に福祉の方向に行きたいと思っていたので、そのためにはまずは身内から固めていかないと、と考え、彼女には、「結婚するなら、福祉の仕事した方がいいんじゃない?」「やっぱり福祉しかないよね〜」って毎日説得していました(笑)。

洋子:でもね、実際にやってみると楽しくて。当時、ふたりで住んでいた家に、エイブルFCの子がひとりで泊まりにきてくれたんですが、それがすごく楽しい子だったんです。

徹:人の家に泊まりに行くこと自体が嬉しくてテンションが上がっちゃって。洋子のこともすぐ好きになっちゃってね。ずっとほっぺを擦りあわせて、街を歩いてたよね!

洋子:もう、酔っぱらいのおじさんみたいな感じ(笑)。最初はびっくりしましたよ。ふつうに座ることもできないくらい、くっついちゃって。

徹:本当に洋子といっしょに過ごせることが嬉しかったみたい。僕はその時、内心「やったね!」と思いましたね。これで、彼女を福祉の方向に導けるなって(笑)。
洋子:カラオケも行ったよね。

徹:カラオケの店員さんと肩を組んで、郷ひろみの「ゴールドフィンガー ‘99」を歌ったり(笑)。

洋子:(笑)。やっぱりふつうに考えても、中学生の男の子が家族以外の大人の家に泊まりにいくなんて、ないですもん。緊張もするし、テンションもあがりますよね。実際にいっしょに過ごしてみて、あぁ、こんなことってあるんだ!って思いましたね。そこからです。次第に福祉の世界に引き込まれていって、彼に「施設にボランティアに行ってみれば?」と言われて、実際に飛び込みで行ってみたりもしました。当時のアパレルの仕事は、ようやく馴染んできたところだったんですけど、障害を持つ子どもたちと過ごす時間のほうが濃くて楽しくて。会社を辞めてヘルパー2級の資格を取ることにしました。資格を取得するために実習が課されているんですが、そこでは高齢者の方やさまざまな障害を持つ人に出会ったことも、すごくいい経験になりました。

徹:その辺が彼女の素敵なところで、興味を持ったらすぐに実行して、どんな困難も乗り越えちゃう。尊敬してます!


アウトサイダーアートと韓流ショック

洋子:「atelier A(アトリエA)」を始めたのは、いろんな理由があるんですが、まず単純に、子どもが自分を描いてくれたのが嬉しかったからです。ある日、好きな人の顔を描きましょう、というお題を出したら、ある子が私の顔を描いてくれたんです。それがもうなんともいえない暖かい感じで、嬉しくて!

徹:実は、僕は、美術教育を受けていない人の芸術を総称するアウトサイダーアートというものに出会って、興味を持ち始めていたということもあります。もしかしたら、こういう活動をしているなかで、アウトサイダーアーティストを生み出すきっかけになるんじゃないか、って思ったんですね。自分の濃いアートへの興味と障害者に対する考え方が、何かを生み出すんじゃないかって。でも、それは後にすっかり変わっていきました。

日本でも行政もいっしょに取り組んでいるアウトサイダーアーティストを育てる機関はあります。障害を克服するという意味で、「障害を持っているけどできる」という自立を促すことは理想的なことでもあり、とても重要なことです。でも、実際に毎月いっしょに「atelier A」をやっていくうちに、うちはもっとちょっと違うかたちでできればいいかな、と思うようになっていったんです。

ちょうど自分自身の人生における何らかのタイミング、っていうのもあったと思います。僕は仕事でずっとフランス映画やアート関係のことをやってきたんですが、そういうのって、残念だけど実際はあまり売れないんです。それはそれで誇りを持ってやっているわけですけどね。

ところがある日、うちの会社でたまたま、ある韓流スターのドラマを扱うことになって、それが爆発的にヒットしちゃって(笑)。韓流ブームの直前だったから、その後ものすごい勢いで売れて、売れて売れて、僕の給料も上がった! 韓流スター様々です。ヨン様ブームがなかったらこんなに笑っていられない(笑)。

それでね、驚いたのは、なかには、「出してくれてありがとう」「生き甲斐が見つかった」って、わざわざ電話をかけてくる地方に住む年配の女性もいるんですよ。ものすごく感動しましたね。アート系とかだけを取り扱っていたら絶対にそんな経験できないですからね(笑)。なんだか韓国ドラマの仕事の方が世の中の役に立っている。なんだか、もう、ガツンときましたね。韓流ショックですよ(笑)。

それまでは、仕事でも福祉でも、高尚なものに対する憧れが強くて、ダサイものはやりたくないってずっとそう思って生きてきてたんですが、実は、そのことが、自分で自分を狭めていることに気づいたんです。だから、今の自分にとっては、韓国ドラマのDVDを販売しながら「atelier A」をやるっていうのが、とっても自然で、それが結構楽しいことなんだってつくづく感じています。

若いときからストレートに売れているとか、分かりやすいとかいったメジャー志向に行くのはどうかと思うけど、売れていなくても意味のあるものとか、いろんなことを一生懸命勉強して知った上で、時代の流れとともに、自分も変化して今のところに辿り着いたことが、いいなと素直に思えるようになりました。

結婚とか子どもができたタイミング、そして仕事での大きな変化など、すべてが「atelier A」を始める上での影響を与えていると思いますね。


できるだけ軽やかに自由に活動していきたい

徹:保護者の方から、「障害者の子どもは、学校と作業所以外での活動の場が少ない」という話を聞いたことも、「Atelier A」を頑張って続けている大きな理由です。ですから、なるべく時間を取ろうと思って、週末のうち、月3回はサッカーの練習、残りの1回はお絵描き教室をやってるから、なんだか毎週末会ってるっていう子も少なくないですね。2003年の夏に、最初は自宅で始めたんですが、だんだん人数が増え、今は渋谷区が持ってる施設を借りて開催しています。無料なんですよ。

最初はスタッフより子どもの数が多かったので、課題を出してそれを描くというスタイルで始めたんですけど、それだと限度があって。今はなるべく、子ども1人に対して1人のスタッフがついて、寄り添いながらも自由にやっています。最後に発表の時間を設けて、その発表に向けて2時間過ごそうって感じです。発表するっていうのがあると、みんなものすごく頑張るんです。

スタッフには本当に恵まれていて、僕らと仲のいいクリエイターの方々が参加してくれています。編集者の林央子さんやカメラマンの平野太呂さん、女優の奥貫薫さんなど、みんなお忙しい方たちなのに、毎回楽しみながら参加してくれる。クリエイター、特に自分の仕事を楽しんでやってる人は、壁がない人が多いので、子どもの心をがっちり掴めるんです。うちは絵の書き方を教えてもいませんし、アーティストの育成もやっていません。ただ、絵を描くことを通して楽しい時間をいっしょに過ごすことで、いろんな意味で、つながりを横に広げていきたいっていうのかなあ。

洋子:「障害者だから」という、枠組みじゃなくてね。

徹:そうなんです。ふつうに生活をしていると障害を持つ人になかなか会えないから、実態を知らないだけなんです。ところが、1度会ったら、子どもの頃に感じたような、忘れていたような感覚を思い起こさせてくれたりして、とっても新鮮な感覚を覚えるはずなんです。そうやって何回も子どもたちと触れ会っている今は、逆に障害って何なんだろうって思いますね。僕たちのほうがある局面においては、よっぽど障害があるんじゃないかってね。

何が障害であるのかをもっときちんと理解して、受け入れてあげることで、障害を持つ子どもやその親や家族が、もうちょっと毎日を楽に過ごすことができるかもしれない。そんなふうにも思いますね。だから、僕たちは、今までやってきたことを生かしながら、そんな理解を少しずつ増やしていく活動を続けていけたらいいなあと思っています。なるべく気負いなく。返って難しいことなのかもしれないけど、できるだけ軽やかに、自由に、活動をしていきたいと思っています。

今は、週末にサッカーや「atelier A」で子どもたちに会うことが日常になっていて、家族全員で参加しています。うちの子どもなんて、いちばん最初に友だちができたのって「atelier A」に来ている子なんですよ、ね。仲良しなんだよね、雄大くん。

花:(大きくかぶりをふって)そう、仲良し!

徹、洋子:(笑)

徹:うちの親にも協力してもらって、花や星も加えて、3世代に渡って「atelier A」を中心としたライフスタイル、なんていうのもいいかなって思っています。



[取材日:2007年10月25日(木)19:30-21:00@赤荻邸(代々木上原)/インタビュー・文:佐久間成美(エコライター)+『WEBアクロス』編集部]


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    アトリエAは、ダウン症、自閉症のこどもたちと共にはじめた代々木上原のお絵描き教室です。

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